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3 技術開発に打ち込んだ会社員時代 昭和から平成になる頃,シリアから帰国した私は迷わず就職することにした.というのは,大学新卒で何の技術も持たず協力隊員として活動してきて,その技術力の無さ,未熟さを実感したからである.また,何よりも日本という社会で最も多い社会人はサラリーマンなので,サラリーマンを体験せずして社会人として物事が語れないのではないかとその時は考えたからである. 帰国した当時はまだバブルがはじける前で,協力隊事務局に行くと就職先はたくさん来ていた.私はその中のひとつの商社系飼料会社に就職した.研究所で獣医師を募集していたので,協力隊事務局からの推薦もあり,面接を経て無事就職することができた. 会社は全国に支店と工場があり,各支店に獣医師が配置され,営業フォローなどを行っていた.各支店にいる獣医師の約半分が協力隊OBであり,就職して数カ月間はこれら支店の獣医師に託されOJTで現場の仕事を教えられた.会社が受精卵移植を中心としたバイテク事業を始めるので,中央研究所のバイオ技術課に配属された. バブル期だった当時,各飼料会社は余剰資金を当時注目されていたバイオ技術などの技術開発や新規事業などに先行投資していた.就職した会社も例外ではなく,当時緒に就き始めた体外受精技術を会社として事業化しようということで,日本全国からバイオ研究をしていた大学院生などを青田買いしていた.そんな中で私が配属されたバイオ技術課は課長と私以外は全員新卒者ばかりで,学生時代の研究室生活の延長のような生活であった.入社して最初の2年間くらいは毎晩帰宅するのが夜半過ぎであった.人生で一番仕事をしたのはこの時であったように思う.ただまだ若かったので,体力もあり,研究生活も面白かった.無菌操作などは得意ではなかったが,この期間に同僚達から,細胞培養や体外受精などバイオ技術の基礎的な研究方法などを学ぶ機会を得,これは今日,私が受精卵移植の専門家として仕事していく基礎となった. 入社して3年目には,大手ハム会社と共に,和牛体外受精卵事業を立上げるため,神戸近郊の食肉処理場に体外受精卵の培養施設を開設した.毎朝と畜場で体外受精用の卵巣を集め,昼間は受精卵の培養や体外受精,受精卵の凍結作業などをする実験室内での仕事が2年程続いた.ここでは新技術の事業化や他企業との合同事業など業界で生きて行くために学ぶことも多かった.物を生産して販売し,利益を得て社員を養っていく民間メーカーの基本を学んだ.また他の会社の社員と仕事を共にして,会社気質の違いや社員教育など様々に学ぶことは多かった. その後,富士山の裾野にある牧場を会社が買い取り,牛用配合飼料の研究と受精卵移植の試験をする目的で社員に募集があり,培養室で毎日顕微鏡をのぞく生活を続けていた私は迷わず現場に行くことにした.その牧場は山梨県の上九一色村,富士山の中腹標高1,000mの所にあった. この富士山の牧場で2年間乳牛を使った受精卵移植の事業化を目指しひとり孤軍奮闘していた.というのは,それまで会社では体外受精の研究はしていたが,過剰排卵処理による体内受精卵採取は行っていなかったため,採卵も併せて事業化したいという目論見であった.牧場では育成牛は育てずに,北海道から初妊牛を導入,高泌乳牛はドナーとして採卵,その他の牛は研究所の培養室で作製した和牛の体外受精卵を移植した.150頭の牛の繁殖管理も全てひとりで行っており,この時は朝の搾乳の合間に発情牛などの直腸検査をしながら,人工授精や受精卵移植を行い,午前中は採卵と受精卵の処理,午後は蓄積されたデータの処理などをしているとあっという間に,富士山が赤く夕焼けに染まるのが職場の窓から見える時間となった.ここでの経験で繁殖管理,直腸検査や受精卵移植の自信へと繋がった.受精卵技術の事業化のために,日本各地の支店の営業マンと共に北は北海道から南は鹿児島まで,出張に出かける事も度々あった.私の移植技術が向上したのか,体外受精卵の品質が良くなったのか,2年経つ頃には2卵移植の多くが双子を産むようになった. |
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4 再び国際協力の現場へ そんな日々を過している時に,インドネシアでバイテクのプロジェクトを始めるので行きませんか,との誘いがあった.話を聞きに行くと,「ついてはインドネシアに行く前に,タイの酪農プロジェクトに短期専門家で行って,ちょっと専門家の感触を掴んできて下さい.」と言われ,1994年1月,会社から特別休暇というのを許可されて2カ月間の短期専門家としてタイに赴任したのが,私の専門家としての人生の最初であった. タイでは当時プロジェクト方式技術協力と呼ばれた中部酪農改善計画が行われており,私はバンコク郊外にあるパツンタニ人工授精センターのタイ人カウンターパートに受精卵移植の技術指導を行った.協力隊員の時とは違って,既に会社での6年間の経験があり自分の技術にも自信があったので,すべて自分の掌の中での技術移転だった. プロジェクトには長期専門家が4名既に派遣されており,何れもベテランの専門家ばかりだったので,私は彼らのフォローの下,専門家活動の仕方や専門家としての心構えなどを学んだ.2カ月間という限られた期間ではあったが,他の専門家にも助けられながら,カウンターパート達と共に採卵,移植を行い,受胎例も得られた. 会社からは特別休暇という形で,タイへの派遣を許可されていたので,帰国後はただちに会社の業務に復帰した.その後,半年くらいおいてインドネシアへ長期専門家として赴任する事となり,1994年12月,インドネシアでの家畜繁殖バイテク実用化プロジェクトに参加した.プロジェクトではインドネシア政府が設立した国立受精卵センターを立ち上げ,現地技術者に受精卵移植技術を教えるため,3年間の協力期間で長期専門家2名を派遣,機材供与と現地技術者の日本での技術研修も行われた.リーダーは農林水産省から派遣され,この3年間,二人三脚でプロジェクトを進めていった.自分にとっても初めての長期専門家で勉強になることも多かった. プロジェクトサイトは首都ジャカルタから南に約60キロ,西ジャワ州ボゴール市の国立家畜受精卵センターに置かれた.センターはサラック山の中腹標高1,000mに位置するため,赤道直下にありながら,雨季はジャンバーを着るくらい寒かった.ジャワ島は国土が狭く,山がちなため,平野部では水田や野菜などを作付けしており,畜産は山の斜面へと追いやられていた.土地がなくてもできる農業が畜産という概念であった.そのためジャワ島での酪農の多くは山間地の比較的涼しい高原地帯で行われ,ホルスタイン種が飼育されることが多かった. 家畜受精卵センターの建物はインドネシア政府が建設し,受精卵移植関係の機材をプロジェクトが供与した.センターの開所式には,トリ・ストリスノ副大統領も参列したことから,インドネシア政府の力の入れようがわかる.ドナー牛はインドネシア農業省畜産総局がニュージーランドから輸入したのだが,到着してみると半分くらいの牛が既に妊娠しており,これでは採卵に使えないので,プロスタグランディンを打って流産させたこともあった.はじめは何も無かったラボに一通りの採卵や移植,受精卵の凍結などができるだけの機材を揃え,十数人のスタッフに技術を教え,受精卵移植の一連の活動ができるようになった(図2).3年間で,566頭の採卵を行い,3,133卵を採卵,うち移植可能卵が1,674個,963頭の受卵牛に移植を行い,232頭が受胎した.またインドネシアで初めての体外受精卵由来の子牛も生まれた.こうして3年間の受精卵移植の技術移転は終了し,1997年10月プロジェクト終了と共に帰国した.
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5 海外研修員のサポート JICAは途上国に専門家を派遣して技術支援を行ったり,機材供与や無償資金援助などを行っているが,毎年途上国から多くの研修員を受け入れ,国内において技術研修を実施している.農林水産省(現,独立行政法人)家畜改良センターでは畜産分野に於けるJICA研修員の集団技術研修を年間6コース(養鶏,養豚,牧草飼料生産,人工授精,受精卵移植,体外受精双子生産コース)実施していた(図3).インドネシアから帰国した私はここで技術研修のコースアドバイザーとして,技術研修の準備や研修期間中の講義・実習の運営,研修内容のフィードバックなどを行いながら,海外研修員の技術習得支援に携わった. 研修員は基本的に1カ国1名であり,10名の研修コースだと10カ国くらいから研修員が参加し,それが2コース重なると20人くらいになる.研修期間中は海外研修施設に宿泊して講義や実習を受けることになる.研修員たちはアジアやアフリカや中南米,太平洋諸国など様々な国から参加している.家畜改良センターは福島県の西郷村という片田舎にあるが,研修施設はまさに様々な国からのインターナショナルな空間となる.ここで私は世界各国の様々な研修員達と出会い,数カ月間寝食を共にすることによって,帰国する頃には親しくなり,時にはプライベートで彼らの国を訪問したり,その後の専門家としての派遣国で,彼らと一緒に仕事をしたりすることもあった.後に私が赴任したニカラグアの畜産プロジェクトでは,集団研修に参加していた研修員は,カウンターパートのひとりとなった.さらにボリビアから招聘した第三国短期専門家も,以前私が担当した集団研修コースの研修員のひとりだった.彼はJICAの研修員から,JICAプロジェクトのカウンターパート,そしてJICA専門家にまで育ったのである.研修成果の理想像のひとつとして,全く嬉しいことである. それまでJICAの専門家として海外から研修員を日本に送る立場だったのが,今度は日本で研修員を受け入れる立場となり,両方の立場を経験したおかげで非常によい勉強となった.海外に専門家として赴任していると,異国の地で生活する苦労や自分ひとりが外人であり,まわりはみな現地の人達という状況を体験しているため,研修員がたったひとりで自国から日本にやってきて日本人の中で生活する苦労も,ある程度想像できる.そのため,休日には彼らを日本庭園やお茶会に連れて行って日本文化を体験させたり,また研修期間中にはホームステイや小学校での子供達との交流などが企画され,帰国するまでにできるだけ日本の文化を体験し,日本を好きになって帰ってもらうよう心懸けた.国造りは人造り.日本びいきになった研修員達が,日本で学んだ技術を将来の国造りに活かしていって欲しい.しかしながら途上国では往々にして,日本で学んだ技術が活かせるような環境が整っていない場合も多く,それら環境整備をするのも,技術協力専門家の役割でもある.
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