会報タイトル画像


解説・報告

−海外で活躍する獣医師(V)−
日本と途上国との架け橋に

斉藤 聡 (国際協力機構「ニカラグア中小規模農家牧畜生産性向上計画」元長期専門家)

斉藤 聡
 1 は じ め に
 1999年4月1日,国際協力事業団(JICA,現(独)国際協力機構)技術協力専門家としてカンボジア農林水産省動物生産衛生局に派遣されていた私は,カンボジア中部コンポンチャム州の陸軍駐屯地を訪ねた.駐屯地までの道のりは長く,首都プノンペンから国道6号線を北へ約140km,州都コンポンチャムからメコン河をフェリーで渡り,さらに約8km行った疎林の中にあった.兵器倉庫や事務所など建造物の老朽化は激しく,スレートの屋根には銃痕による無数の穴が20年に及ぶ戦禍の名残を残していた.敷地に隣接して灌漑用のダムがあり,ポルポト時代にはこのダムが1万人の死体で埋まったとの説明を受けた.応対してくれた駐屯地の最高責任者は,マラリアを患っているといって青白い顔をしながら,我々の見学を許可してくれたが,建物の写真撮影は一切禁止された.
 この軍施設は今から40年以上前,1964年に建設された「日本カンボジア友愛畜産センター」の跡地であり,日本の海外畜産技術協力の原点ともいわれている.カンボジアへの日本の技術協力の歴史は古く,1959年に対日賠償請求権放棄の見返りとしてカンボジアとの間に総額15億円に上る経済・技術協力が締結され,畜産センター(コンポンチャム州),農業センター(バッタンバン州),医療センター(モンコールボレー州)の3センターの設置が決定された.同畜産センターには1964年から6年間に渡り,専門家7名が派遣され,牛乳や鶏卵生産,種畜の配布が行われていた.技術協力は順調に進んでいたが,1970年のロン・ノル将軍によるクーデターにより,戦火の中,畜産センターの乳牛66頭,豚130頭及び主要機材をプノンペン近郊の国立種畜牧場と養豚場へ疎開させ,同年7月に専門家は全員引き上げたと報告されている.それに伴い,日本のカンボジアへの技術協力は全て凍結され,カンボジアは20年以上に渡る内戦に突入した.
 それから30年の歳月が流れ,畜産センター当時の建物のいくつかはまだ残され軍施設として使われていたが,老朽化し苔生した建物は歴史の流れを感じさせた.今でこそ道路も舗装され,メコン河には日本の援助で橋が架けられたが,当時は道も悪く,首都から遠く離れたマラリア常在地での技術協力にどれだけの困難があっただろうかと,崩れ落ちたレンガの壁を眺めながら思いをめぐらせていた.JICA専門家としてカンボジアでの畜産技術協力の原点の地を訪れることができた私の,途上国での技術協力に関わるようになった経緯を以下に綴ってみたい.

 2 世界観を広めた協力隊派遣
 北海道の田舎で育った私は子供の頃から自然が身近にあった.将来は野生動物の保護に関わる仕事に就きたいと考えていたので,大学は獣医学科を選んだ.大学では病理学研究室にいたので,病理解剖はよく行った.ぼんやりと将来は臨床獣医になるのだろうと思っていた.80年代当時,野生動物に関わる職種はほとんどなく,アフリカに行けば野生動物くらい見られるだろうと思い,青年海外協力隊の試験に応募した.
 1986年,卒業と同時に3カ月間の派遣前研修に参加,シリアに派遣されることとなった.協力隊の応募では,アフリカに行きたいと思っていたのだが,アフリカでもアジアでもなく,派遣国は中東の地であった.それまで中近東は焦臭いイメージくらいしか知らずに,ほとんど予備知識がなかった.派遣国がシリアと決まってから初めて地図を開いてシリアの位置を確認したのを覚えている.
 1986年8月,同期隊員5名と共に,シリアに旅立った.途中トランジットで一泊したクウェートは,平坦で砂漠の上に人工的に作られた都市のようで,椰子が街路樹として植えられている他に緑は見当たらなかった.日差しは強く,体温を超える気温の中で,ホテルの窓から眺める日昼の市街地に動く者の気配はなく,唯一動いていたのは自動車だけだった.暑さが和らぐ日没後の街に出てみると,市場から独特の香辛料の匂いが流れ,黒いベールで顔を隠したアラブの女性達が歩いていた.テレビの世界でしか知らなかったアラブの世界に来てしまった実感が沸いてきた.シリアもクウェートと同じように砂漠の国かと思っていたが,飛行機の窓からは意外と多くの緑が見えた.酪農が盛んなのだから緑があって当然なのだが,安心したのを覚えている.
 当時はまだ東西冷戦時代,隣ではイラン・イラク戦争やレバノン内戦があり,シリアは東欧諸国やソ連の支援を受け,西側諸国とは緊張状態にあった.地中海沖でアメリカの空母がリビアに砲撃した際には,ダマスカスのアメリカ大使館は閉鎖された.街中でニューズウィークを買うと検閲のためあちこちの記事が切り抜かれ,切り絵のようになっていた.電話は盗聴され,日本からの手紙もみな検閲されていた.ある時,同期の秘書隊員が私の家族の写真を持ってきた.なぜ私の家族の写真を持っているのか聞くと,日本から彼女あてに届いた手紙の中に,私の写真が雑じっていたという.皆で推測すると,検閲で開封した手紙を戻す時に,間違えて秘書隊員の手紙と一緒に私の写真を戻してしまったようであった.
 首都ダマスカスの街中では,辻角ごとにカラシニコフ銃を持った兵士が警備していたので,逆に治安が良いと言えば良かった.さらにモハバラートと呼ばれる秘密警察がそこここにいて,治安維持にあたっていたようであった.私服のため誰が秘密警察なのか一般人にはわからないが,私がいた牧場でも,場長の秘書は秘密警察だとか,分娩牛舎の夜警が実は秘密警察だとか,まことしやかな噂がながれたりした.
 ダマスカスで1カ月間の語学研修を受けた後,同期隊員はみなそれぞれの任地に赴任して行った.シリア農業省酪農公団は傘下に幾つかの国営大規模牧場を国内に有しており,私が配属されたのはシリア南部ヨルダン国境近くのダラ牧場であった.南はヨルダンとの国境,西はイスラエル,北はレバノン,というかなり物騒な三角地帯で,時に戦車が牧場の前を運ばれていくこともあった.
 ダラ牧場は430haに約1,500頭の牛を繋養,うち搾乳牛が約600頭,20頭ダブルのへリングボーンタイプのミルキングパーラー2棟で朝晩2回搾乳していた.シリアでは画期的なフリーバーンで繋養されていたのはシリアン・フリージアンと呼ばれていた乳肉兼用種で,ヨーロッパから輸入されたフリージアン種を素に,ホルスタインの体格を小さくして肉付きよくしたような体型をしており,小肥りのホルスタインのようであった.
 牧場での業務は,獣医師であるシリア人のカウンターパートに診療技術を教えるというものであり,1,500頭もいると,毎日何かしらの診療,治療業務があり,それをカウンターパートと一緒に場内を巡回しながら診療してまわるのが日課だった.しかしながら,大卒後すぐの現場での診療経験がない新卒獣医が教えることはほとんどなく,逆に教えられることばかりであった.日本では人工授精の経験もなかったので,牧場に赴任した頃は子宮頸管を通すこともできなかったが,牧場の人工授精師に教えてもらいながら,次第に人工授精や妊娠鑑定もひとりでできるようなった.1,500頭規模の牛群では,ほぼ毎日発情や人工授精があり,妊娠鑑定では一度に100頭くらいを直腸検査するので,じきに上手になっていった.
 私は牧場職員が居住する牧場内の官舎のひとつに住居をもらい,家の窓を開けると,牧草地の向こうには雪をいただくゴラン高原が見えた.仕事を終えた夕方には,ヨルダン渓谷に沈む夕陽を眺めながらシリア製の泡の立たないビールを飲むのがささやかな楽しみだった.乾季の牧草地,刈り取った後の牧草は枯れ一面茶色くなり,そこにベドウィン達が羊を連れて放牧しに来ていた.休みの日には彼らのテントに遊びに行くのも楽しみのひとつだった.ベドウィン達は知らない外国人の私をテント内に招じ入れてくれて,チャイやコーヒーを振る舞ってくれた.代わりに私は彼らの写真を撮ってあげたりした.シリアにしばらくいて知った話では,彼らは来る者は歓迎するが,心を許すくらい仲良くなるのは難しいということであった.ベドウィンは遊牧の民,砂漠の真ん中で見知らぬ来客があった場合,水や食事を提供しないと砂漠では即刻,死につながるからであろう.
 シリアではイスラム教徒が多くラマダンという断食月があり,私も彼らと一緒に任期中3回のラマダンを経験した.はじめは軽い気持ちで始めたのだが,「今度来たヤバーニ(日本人)はラマダンをやっているらしいぞ.」と牧場の中ですぐに噂が広まり,途中でやめることができなくなってしまった.ラマダン中は日没後と夜明け前の2回食事をするのだが,毎晩,夜中の3時頃になると,カウンターパートの子供達が家のドアをノックして,ご飯を食べに来いという.そのお陰で,ラマダン中は食事を作らず毎日同僚の家に食事に呼ばれていた.ラマダンを一緒にすると,苦楽を共にした連帯感があり,牧場の職員達からも信頼されるようになった.
 牧場の隣には農業高校が隣接しており,そこにはシリア各地から農業を勉強する若者達が集まっていた.そのうちの何人かは私達日本人に興味を持って,夜や週末に私の住む官舎によく遊びに来ていた.ある時,カミシリというシリア東部イラク国境近くの砂漠地帯から来ている学生が,休みに実家に帰省するので一緒に行かないかと誘われ,シリア砂漠に一緒に行くことになった.彼はクルド人であり,クルド人はイラクの旧フセイン政権が弾圧したといわれているイラク北部のクルド人居住地をはじめとして,シリア北部,トルコ東部に跨って暮らす,国を持たない民族である.
 彼の家族はベドウィンであり,訪問した当時は既に砂漠の中に家があり定住していたが,その家が建てられたのは去年のことで,それまではテント暮らしの遊牧生活をしていたという.シリア政府はベドウィンなどの遊牧民達の定住政策を進めており,その土壁の家もシリア政府の援助で建てられたという.砂漠の中なので当然水道などは無く,水は遠くの井戸まで毎日汲みに行き,トイレは家から少し離れて砂漠の砂に穴を掘って適当に始末するという家だった.
 シリアに限らず途上国はどこも子沢山で,彼の家も兄弟が沢山いた.彼の一番下の弟はまだ乳飲み子だったが,母親の母乳が出ないと言っていた.赤ん坊が飲んでいるほ乳びんを見ると,茶色い液体が入っていたので訊ねると,チャイだという.チャイというのはアラブの紅茶であり,砂糖をたっぷり入れて飽和状態まで煮込んだ超甘いお茶である.シリアの男たちは誰でもこのチャイを飲みながら水煙草をふかし,日長一日駄弁っているのをそこら中で見ない日は無いくらい,コミュニケーションの材料のひとつともなっている.
 話を戻すと,その赤ちゃんは母親の母乳の代わりに砂糖がたっぷり入ったチャイを飲んで過していた.その時撮った写真(図1)には,中央で筍のように撒かれた赤ん坊が母親に抱かれているのが写っている.後日,休暇から農業高校に戻ってきた彼から,私達が帰ってまもなくその赤ちゃんは亡くなったと聞いた.お金がないので,子供のミルクも買えずに,赤ん坊が死んで行くのが,途上国の現実であった.そのため,途上国では子供の数が多く,多く産まれるが,死亡率も高いということなのであろう.私は保健衛生の専門家ではないが,途上国の現実を見せつけられた思いがした.

図1 ベドウィンの家族と共に.筆者(中央)の後ろで母親が抱いているのが文中の赤ちゃん(シリアにて)

図1 ベドウィンの家族と共に.筆者(中央)の後ろで
母親が抱いているのが文中の赤ちゃん(シリアにて)



次へ