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 赴任してまだ間もない頃,ハマ郵便局の局長とけんかをしたことがあった.手紙を渡す渡さないで口論になったのだが,最後に彼の胸を小突いて捨てぜりふをはき,バスに乗ってアパートへ戻った(こんなことをしているからJICA事務所に連絡がいくのだが).するとアパートの入り口に佇んでいた隣人がニヤニヤ笑って,「お前,郵便局でけんかしたんだってなあ」と言ったのには驚いた.シリアでは噂が伝わるスピードは市営バスの速度よりも速いのだ.当時の在シリア日本大使が,「シリアではわざわざ予算を使って宣伝をする必要などありません.そっと近くの人の耳元にささやくだけですぐに話は広がりますから.」と冗談交じりにおっしゃっておられたが…うーん,本当にその通りだなあとアラブ世界の人間関係の強さを改めて認識した.
 これらシリアでの経験を通し,頭にシュマーフ(アラブ男性の頭を覆う布)をかぶりガラビーエを着たむさ苦しい男達から,仕事の面でも生活の面でもどれだけ多くのことを学んだかはかり知れない.とくに人とのつき合い方という点で,日本文化と対極にある考え方を持つ人たちとの生活は,心の奥底にあった何かを目覚めさせてくれた.それは一対一の人間関係にこそ文化交流や国際協力の原点があるのではないかという思い.けんかをしようが頭にこようが,見知らぬ人々との生活には心躍る何かがあることを実感した.幸いにも自分には獣医という武器がある.これを使ってこれから先も国際協力という仕事を続けていけたら…と,自分の進むべき道がようやく見えてきたのは帰国が間近に迫った頃.やっぱり時限爆弾が働かないと自分の気持ちが固まらないのだ.日本に帰ってから取り組むべきハードルを心に並べ,愛しのシリアを後にした.
 日本に帰ると現実が待っていた.「今後も海外で働きたいのですが」と諸先生・先輩方々に相談すると,ほとんどの人は口を揃えて「何馬鹿なことを言ってるんだ.早く就職先を決めて結婚でもしろ.」と,おっしゃった.しかしこういうことを頭ごなしに言われると反抗したくなるのが愚かな人間の性だ.だいたいシリアを出る時点で次に何をするかはもう決めていたのだから,「それぐらい察しろよ.人の気持ちは常識の外側にあるんだぞ.」と心で呟いていた.一応相談をしたのは,自分の気持ちが本物かどうかを確かめたかっただけなのだ.最終的には自分で決めないと何も動き出さないのはわかっていた.反対されて逆に心が固まったようなところもあり,留学をして博士号を取ることにさっさと決めてしまった.
 そうなると問題は資金である.留学をするには金がかかる.かといっていい歳をして親に出してもらうわけにはいかない.となると奨学金をもらうしかない.そこで狙ったのがJICAの海外長期研修制度である.これはJICA職員や省庁の国家公務員を対象とした奨学金で,海外で2年間勉強させていただけるというありがたい制度だ.幸いなことに協力隊経験者に対しても門戸が開かれており,協力隊事務局の推薦で応募できる.この受験のために約1年間準備をし,試験を受けた.ついでに受けた「世界青年の船」に一足早く合格し,ハワイへ向かう船の上で海外長期研修の合格電報を受け取ったときは,運命の中に吊るされていた極上の札が自分の手元に舞い降りてきたような気がした.これで自分の将来の方向性がだいたい決まってきたのだ.
 過去の家畜衛生分野における技術協力プロジェクトを調べてみると,その多くが動物用ワクチンの製造か家畜感染症診断技術の改善であった.それゆえ,この二つを天秤にかけて後者の勉強をすることに決め,留学先としてリバプール大学の医学部に附属する世界で一番古い熱帯医学の学校を選んだ.取り組むことにした病気は人獣共通感染症であるトリパノゾーマ症で,研究の詳細は自分次第ということになった.
 日本の大学院では教室によって研究の流れというものがあるため,リサーチの学生はその中に組み込まれるのが普通だ.つまりその研究室として取り組んでいる研究テーマの一部を教授から与えられ,それを進めて論文にまとめていくのが普通だろう.しかしここでは違った.自分で考えなくてはならない.それから約1カ月間,教授に渡された一本の文献を出発点に,図書館で膨大な数の論文を読む日々が続いた.図書館で囁きあうようにおしゃべりをする他の学生に,「うっせえな,静かにしろよ」と怒鳴りたくなる気持ちを抑え,コピーをしては読み,疲れると講義室へ出かけて行ってボケーッと寄生虫や衛生の話に耳を傾けた.
 そうこうするうちにそのトリパノゾーマ症という病気の全体像がぼんやりと頭に浮かんできた.まんざら自分も馬鹿ではなかったようだとホッとひと安心.いったんその病気に由来する問題点と,世界で進められている研究の状況がわかってくると,あとは早い.その解決していない問題の中から自分にとって一番興味のある部分を選べばよいのだ.自分の頭の中に出来上がった研究のストーリーを文章にまとめて提出し,何とか教授のお許しを取り付けて長かった図書館生活に別れを告げた.
 イギリスに来て2年半が過ぎようとしていた.日本にいる友達の間では「柏崎はアングロサクソン人にいじめられて落ち込んでいる」という噂が流れていたようだが,単調ながらも考えさせられることの多いリバプール・ライフを思いのほか楽しんでいた.金曜の晩は研究室のスタッフとパブをハシゴし,クラブで踊って息抜きをする.実験の方も順調に進み,開発に取り組んでいた診断法は先が見えてきた.教授との当初の約束通り,診断法のフィールド・トライアルを実施するため,2カ月間ウガンダへ行くことになった.
 空から見るウガンダは緑一色だった.腕まくりした心にしみこんでくる鮮やかな緑だ.チャーチルがウガンダのことを「アフリカの真珠」と呼んだという話は前に聞いたことがあったが,確かに美しい国である.昔読んだ本の悪名高きアミン大統領のイメージしかなかった自分にとって,この飛行機の窓から見えるまぶしい光景は予想だにしなかった.かつて恐怖政治が行われ,理不尽な暴力によって支配されていた国は,今この豊かな緑の中にあって再びよみがえりつつあるのだろうか.人間の生活力も自然の生命力に負けてはいるまい.飛行機がエンテベ空港に着陸して外に出ると,まるで未来の種を運んでくるかのようなさわやかな風が,大地の上をやさしく吹いてきた.


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