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解説・報告

 2 A獣医師の主張
 原告の主張に対し,これを否認するとしてA獣医師は,以下のように主張した.
  1. X年1月28日に,右精巣の去勢手術及び左腹腔内の停留精巣摘出手術をいずれも適切に行い,それぞれ精巣を摘出した.また,X+2年12月26日あるいは翌年1月25日時点で,セルトリ細胞腫に罹患したことを疑わせる兆候はなく,治療により治癒した.仮にセルトリ細胞腫に罹患していたとすれば,本件犬には左右に精巣が2つずつあるという極めて珍しい奇形というべきで,予見可能性がない.
  2. 仮にセルトリ細胞腫に罹患していたとしても,同腫瘍により骨髄に強い損傷を受けていた本件の場合は,その摘出手術をしても救命は不可能であるから,原告がE大学動物病院に支払った治療費は賠償の対象には入らない.
 3 地方裁判所の判断
 地方裁判所はまず,「正常な雄の成犬は,腹腔外の陰嚢内に左右2つの精巣を有する.これに対し,精巣が陰嚢内の正常な位置に下降せず腹腔内に留まる場合を停留精巣という」,「停留精巣はセルトリ細胞腫が発生する危険性が正常な場合と比較して著しく高いため,摘出することが望ましい」と認定した.
 次に,本件犬の精巣の状況については,D動物病院での診察所見,C動物病院でのB獣医師の説明及びカルテや領収証の記載,獣医師が陰嚢に精巣があるかないか自体を誤診する可能性は低いこと,ペットに高い関心を持つ飼い主に対しあえて偽りの事実を告げるとは考えにくいことから,X年1月28日当時「少なくとも本件犬の右精巣1つは腹腔外の陰嚢に入っている状態であった」とした.しかし原告は,E大学動物病院での手術により腹腔内から腫瘍化した停留精巣が摘出されたことから,本件犬の精巣はそもそも左右とも停留精巣であったと主張した.これに対し地裁は,「手術以前の本件犬の精巣の個数は不明である」として退けた.
 続いて,A獣医師が停留精巣摘出手術をしなかったか否かについては,C動物病院のカルテの記載,術後に臓器を示して説明したこと,後日抜糸したこと,E大学動物病院への紹介状の中に去勢犬であることなどが記載されていたことから,「C動物病院において右精巣の去勢手術及び左精巣の停留精巣摘出手術を受けた」と認めた.一方,E大学動物病院の執刀医は,「本件犬の体内に手術痕が見つからなかった」と供述したが,裁判所は「腫瘍化した左停留精巣は他の組織と癒着していたことなどを併せ考慮すれば(中略),前記認定を覆すには足らない」とした.
 さらに,A獣医師が停留精巣摘出に至らなかったか否かについては,X+2年12月26日時点での脱毛症状,翌年3月15日ころまでには雌性化症状や貧血に伴う重篤な病気に罹患していたこと,E大学動物病院内科担当医がエストロゲン産生腫瘍に罹患しているのではないかと疑いを持ったこと,2名の鑑定人による共同鑑定の結果によれば,「E大学動物病院における手術によって摘出された左右の腫瘍は,個々独立して発生したセルトリ細胞腫である可能性が高く,左右の腫瘍は2個の停留精巣が個々に腫瘍化することによって形成されたものであり,転移性の腫瘍性病巣ではない可能性が高い」と認められること,E大学動物病院担当医らの証言全趣旨から「セルトリ細胞腫を発症してからE大学動物病院での手術まで,数カ月以上経ている」と認められることから,遅くともX+2年12月26日までにはセルトリ細胞腫を発症し,翌年3月19日にE大学動物病院でセルトリ細胞腫を摘出されたと認められ,本件犬の停留精巣はX年1月29日の後も腹腔内に残留していたというべきである.つまり,「A獣医師は停留精巣摘出手術に着手していたものの,(中略)停留精巣を完全に摘出したわけではなかった」とした.そしてA獣医師には,「腹腔内に癌になる可能性の高い停留精巣を取り残した過失が認められる」とした.
 以上の判断に従い,地裁はA獣医師の過失と相当因果関係のある損害賠償金を,以下のように認定した.すなわち,A獣医師が停留精巣を適切に摘出していたら,本件犬はセルトリ細胞腫に罹患することはなく,遅くともX+2年12月26日にはセルトリ細胞腫を発症していたと認められるから,それ以降にC動物病院に支払った治療費4万余円,E大学動物病院治療費77万余円については認める(なお,E大学動物病院での手術時点において,本件犬の救命可能性が全くなく,治療が不要なものであったとはいえない).他方,葬祭費及び献血への謝礼や交通費などは,一般にペットの治療や死亡の際に支出する費用とは認めがたく,退けられた.慰謝料は,原告が本件犬のセルトリ細胞腫への罹患及び死亡により相当の精神的苦痛を被ったことや,諸般の事情を考慮し,50万円が相当であるとした.以上により,合計132万余円の支払を命じた.

 4 高等裁判所の判断
 地裁判決を受け,原告はその敗訴部分を取り消した上,請求額と認容額との差額である424万余円の支払いを求めて控訴した.これに対しA獣医師は,E大学動物病院において摘出された臓器の保存及び鑑定の信頼性について,疑義を主張した.A獣医師の請求により行われた鑑定人尋問の結果,明らかになった共同鑑定の手法は以下の通りであった.
《1》E大学動物病院外科で摘出物を撮影(デジタル写真)し,切片にし,ホルマリン保存した.
《2》同外科からE大学動物病院病理研究所所属の鑑定人へ,《1》のデジタル写真とホルマリン標本の一部を提供した.
《3》同病理研究所でプレパラートを作製した.
《4》同病理研究所からF大学の共同鑑定人へ,《1》のデジタル写真と《3》のプレパラートを送付し,鑑定書を作成した.
 つまり,鑑定人は両名とも摘出物の全体を直接確認しておらず,外科で撮られたデジタル写真のみで判定していた.そして,記録されていたこの写真の撮影年月日は,E大学動物病院における手術時とは全くかけ離れていたことにも疑問があった.しかし高裁は,E大学動物病院には特別の利害関係や事情が認められないことから,これは虚偽の写真やデータではないと判断した.そして,X年1月28日当時,本件犬の腹腔外の陰嚢に右精巣があり,左精巣は腹腔内にあったこと,E大学動物病院の手術により腹腔内の左右に個々独立して腫瘍化した停留精巣の存在が確認されたことから,「右精巣は腹腔内と腹腔外に1つずつあった」とした.すなわち,「少なくとも3つの精巣を有していた稀な雄犬であった」と判断したのである.
 続いて,A獣医師が「故意に摘出しなかったとまで認めうる証拠は無い」とし,腹腔外の右精巣については除去しており,腹腔内にも右精巣があるとの予見は困難であり,過失ではないとした.一方,左精巣については,腫瘍化した右の停留精巣に比べ半分の大きさの腫瘍化した左精巣が腹腔内にあり,周囲の組織に癒着して尿管と左腎臓を巻き込んでおり,右の腫瘍とは病態に著しい違いがあったことから,「A獣医師は左停留精巣の摘出手術に着手したものの,その全部を摘出するに至らず,相当部分を取り残したものと認める」とした.
 以上の判断により,高裁は両者の控訴を棄却し,地裁判決と同額の判決とした.その後,上告はなされず,この判決は確定した.

 

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