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5 考 察 裁判所の判断を要約すると,以下のようになる. 《1》正常な雄成犬は左右2つの精巣を有する.3個以上の精巣が存在するPolyorchidism〔精巣過剰症,睾丸過剰症,多睾丸〕は極めて珍しい異常であり[1],犬での発生の報告は非常に少ない[2].高裁において,A獣医師は最新の文献[3]を提示し,去勢後に精巣組織起源の腫瘍を発症した犬猫の症例報告があり,本件犬がこのような奇形であったとすれば予見可能性は無いと主張した.訴訟になっていなければ,本件犬は外科や病理の学会において検討されるべき症例であったと考えられよう. 本件訴訟では,獣医療訴訟としては珍しく,「鑑定」が採用された.民事訴訟法における「鑑定」とは,裁判官の判断能力を補充するため,専門的分野に関する知識や判断について,裁判所の依頼に基づき(第218条),鑑定に必要な学識経験を有する者(第212条)に口頭または書面で報告させる証拠調べ(第215条)である[4].人の医療関係訴訟では,医学的知見や医療水準を踏まえた適切な判断を行わなければならないため,鑑定の意味合いが大きい.最高裁判所の統計(概算)によれば,医療関係訴訟(既済事件)の鑑定実施率は,平成15年には25.8%であり,地裁民事第一審通常訴訟の鑑定実施率(1%)を大幅に上回っている[5].鑑定を行う「鑑定人」は,それぞれの事案にふさわしい専門的知識・経験を有し,かつ,中立公平な立場にあるべきことが要請される[6].しかし,裁判所では,どの分野のどの医師が,その事案の鑑定人としてふさわしいかについて適切に判断をするための情報を必ずしも十分に有していない[4].そこで平成13年7月,最高裁判所の中に,鑑定人候補者を早期に選定したり,各界の有識者に医事紛争事件について様々な意見を述べてもらったりすることなどを目的として,医事関係訴訟委員会が設置された(図) (裁判所ホームページhttp://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/izikankei/index.html).また,医療訴訟の増加に対応するため,平成13年4月から,医療訴訟(民事事件)を集中的に取り扱う医療集中部が東京・大阪の両地方裁判所に新たに設けられ,それぞれが独自に鑑定人候補者選任のための地域ネットワークを構築している.その後,千葉・名古屋・福岡・さいたま・横浜の各地裁にも順次医療集中部が設置されている.以前に紹介した犬の糖尿病治療の損害賠償請求訴訟(平成16年5月10日判決)[7]は医療集中部で審理されたが,本件は医療集中部での扱いではなかった.そして本件では,裁判所の選出した鑑定人2名による「共同鑑定」が行われた.「共同鑑定」とは,複数の鑑定人が共同して1つの鑑定意見を述べる方式である(表2).専門分野を同じくする鑑定人による共同鑑定では,鑑定をする作業過程で適宜相談,協議ができ,複数の専門医の意見が反映され,鑑定人の負担感も軽減できるというメリットがある[5].一方,他の鑑定人との関係(同格で無い場合など)によっては,意見に引きずられる可能性があるなどのデメリットも指摘されている[8].本件では,専門分野を同じくする(獣医病理学),所属機関の異なる(E大学,F大学)鑑定人2名が選任された.しかし,鑑定人のうち1名は,E大学動物病院での本件犬の外科手術の際に病理診断を行った当事者であった.つまり,当該機関に所属する,当該病理診断を行った獣医師が,鑑定を担当したのである.この鑑定人選定は,中立公平という点で疑問が残ろう.今後このような事態を避けるためには,獣医療分野にも,獣医療訴訟の際に鑑定人候補者を早期に選定したり,各学会の有識者に獣医療紛争について様々な意見を述べてもらったりすることができるような組織作りが必要になると考えられる. この裁判を終え,A獣医師が学んだことは何か.それは,記録保存の重要性だという.カルテはもちろんのこと(診療簿の記載・保存の義務/獣医師法21条),組織標本の保存,写真による記録保存の必要性を再認識し,日々の診療記録を確固としたものにすることが,リスクマネジメントとして重要であることを示唆している. |
図 医事関係訴訟委員会[5]
表2 鑑定方式*
引 用 文 献 | ||||||||||||||||
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