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岩上悦子†,勝又純俊,押田茂實(日本大学医学部社会医学系法医学分野)
犬の去勢・不妊手術の実施状況は,昭和54年には7.7%の実施率であったが,平成15年には25.3%に増加している(内閣府;動物愛護に関する世論調査.平成15年7月).去勢手術は,開業獣医師にとって日常的に行われていることであろう.冒頭で紹介した裁判は,身近な去勢手術に関する事案であり,興味深い判断がなされているので紹介する.なお,一審・二審判決全文はともに,被告とされた獣医師より提供を受けた.また,一審判決については,オンラインの裁判例検索サイト(会員制)であるWestlaw Japanのホームページ(https://go.westlawjapan.com)より閲覧可能である. |
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1 事案の概要と診療経過 高等裁判所の認定事実によると,診療経過の概略は以下のとおりである(表1).原告は患犬(ラブラドール・レトリバー,雄)の飼い主である.被告はペット専門のC動物病院を開設し,妻であるB獣医師らと共に動物の病気治療に従事しているA獣医師である. 原告は本件犬を生後約3カ月齢で購入した.4カ月齢ころD動物病院で診察を受け,本件犬の「精巣のうち1つは腹腔外にあるが,他方は停留精巣の可能性がある」と診断された. X年1月28日,原告は初めてC動物病院を受診し,本件犬(当時3歳)の去勢手術を依頼した.触診及び視診により診察したB獣医師は,「右精巣は腹腔外にあるが,左精巣は停留精巣で,停留精巣は放置すると癌になる可能性が高い」ことなどを説明し,停留精巣の摘出を勧めた.これを受け原告は,正常な右精巣は陰嚢内から除去し,左停留精巣は腹腔内から摘出する手術をすることとし,入院させた.(手術の施行については争いがある.) 翌29日,退院時の本件犬の腹部には,切り傷と縫合の痕があった.B獣医師は原告に臓器を見せ,本件犬から摘出した精巣であると説明し,持ち帰るかどうか尋ねたが,原告は病院側で処分するよう要望したため,臓器は廃棄処分された. 手術より2年後のX+2年12月26日,本件犬は1カ月ほど前から左右足根関節を舐め,左側が腫れ,体毛が禿げてきたとの主訴でC動物病院を受診し,胼胝膿皮症と診断された.さらに,翌年1月25日には,2日前から排尿後半に血尿を出す,尿失禁をしたなどと訴え,膀胱炎の疑いと診断された.いずれもB獣医師の治療により良くなったとのことであった. 同年3月15日,原告はC動物病院を訪れ,本件犬が1カ月くらい前から元気も食欲もなく,体が震える,多飲多尿になったと訴えた.B獣医師は,体重減少,元気消失,重度の貧血が認められたため,癌を含む重篤な疾患に罹患しているとの疑いを持ち,その旨を原告に伝え,治療を行った.翌日(日曜日)も改善が見られず,B獣医師は治療を行い,E大学動物病院への紹介状を書き原告に渡した. 翌17日,原告はE大学動物病院を受診した.内科担当医らは,《1》臨床所見(行動・食欲の低下,体重減少,左後肢の化膿,膝窩リンパ節腫脹,乳房肥大,嘔吐),《2》血液検査所見(白血球・血小板が極めて少なく,非再生性貧血),《3》レントゲン検査所見(胸部異常なし,腹部の脾臓付近に腫瘤あり),《4》超音波検査所見(脾臓付近の腫瘤,尿管と思われる臓器の拡張,腎盂の拡張),《5》ホルモン検査所見(エストラジオール値の著しい高値)などをふまえ,本件犬が血管肉腫,リンパ腫あるいはエストロゲン産生腫瘍に罹患している疑いを持った. 同月19日,本件犬はE大学動物病院外科にて開腹手術が行われた.外科担当医は腹腔内を精査し,右側の約10cmの腫瘍を摘出し,左側の約5cmの腫瘍を,腫瘍が巻き込んでいた尿管及び左腎臓とともに摘出した.また,腫大したリンパ節も摘出した.摘出物は,E大学動物病院病理研究所にて病理検査が行われ,同月26日に「左右の腫瘍はセルトリ細胞腫,リンパ節の腫大は脂肪織炎である」と結論付けられた. 手術後より,本件犬は輸血や投薬治療を受け,一時退院したものの,同年4月3日に再入院し,翌日に死亡した(当時6歳).死因は「セルトリ細胞腫ないしそれに伴う高エストロゲン血症による骨髄抑制」であった. 以上の経過から,原告はC動物病院での手術執刀医であったA獣医師に対し,A獣医師が故意に本件犬の停留精巣摘出手術をしなかったために(あるいは手術はしたが停留精巣を摘出するに至らなかったために,あるいはその後の診察においてセルトリ細胞腫罹患を見落としたために),本件犬はセルトリ細胞腫に罹患して死亡したと主張し,これは詐欺的医療行為だとして,治療契約の債務不履行責任または不法行為責任に基づき,損害賠償等計557万余円(本件犬の購入代及び養育費,C動物病院での治療費,E大学動物病院治療費,輸血費用,葬祭費,通院及び葬儀への搬送代,原告の休業損害,慰謝料)を求めた. |
表1 診療経過一覧