9.日本における狂犬病対策
狂犬病の予防は個人レベルの発病予防と感染源対策に大別される.さらに,個人レベルの発病予防は,狂犬病危険動物に咬まれた後の曝露後発病予防と咬まれる前の曝露前免疫に分けられる. 現在まで狂犬病のヒトからヒトへの伝播は,角膜移植を介して感染した8例を除いて報告がない.ヒトは狂犬病のイヌやネコ,キツネ,マングース,コウモリなどに咬まれて感染することがほとんどなので,こうした動物での狂犬病流行がなくなれば,ヒトが狂犬病を発病する危険はほとんどなくなる.したがって,ヒトの狂犬病予防のうえで感染源対策はきわめて重要である.
- 曝露後発病予防
現在の日本ではイヌやネコの狂犬病発生は報告されていないが,タイ,インド,ネパールなどアジア諸国では今なお動物やヒトの狂犬病が発生している.したがって,狂犬病常在地でイヌやネコなどの狂犬病危険動物に咬まれた場合は,できるだけ早期に狂犬病曝露後発病予防を受けるべきである.
狂犬病危険動物に咬まれた場合は,下記のような処置が勧告されている.
- 咬傷局所を石鹸と流水で十分に洗浄する.
- ヒト抗狂犬病免疫グロブリンを20IU/kg(またはウマ抗狂犬病免疫グロブリンを40IU/kg)の割合で,局所に可能なかぎり多量 を,残量を肩に注射する.
- 組織培養狂犬病不活化ワクチンを,開始日を0日として,0,3,7,14,30,90日に接種する.
- ワクチン接種の開始が遅れても,遅れを理由にして接種を拒否してはならない. 本法はエッセン方式と呼ばれ,国際的に狂犬病曝露後発病予防の標準法となっている. ただし,日本では抗狂犬病免疫グロブリンを製造も輸入もしていないので,入手は困難であり,勧告どおりの処置をすることは実際上不可能である.
- 曝露前免疫
狂犬病常在地に赴任したり,3カ月以上旅行する人々には,あらかじめ狂犬病ワクチン接種を受けることが勧められている.
日本では,組織培養不活化狂犬病ワクチンを1カ月間隔で2回接種し,さらに6カ月後に1回接種する方式で狂犬病曝露前免疫を行っている.一方,WHOは,力価が2.5IU以上の組織培養ワクチンを,0,7,28日に接種するように勧告している.曝露前免疫を受けていても,狂犬病危険動物に咬まれた場合は,最終接種からの経過時間に応じて2回から数回の曝露後免疫を行う必要がある.定期的な追加接種は一般
には勧められていない.臨床獣医師,狂犬病ウイルスを扱う研究者,狂犬病検査を行う研究員のように危険が高い人々は2〜3年に1度追加接種を受けるか,測定した血中抗体価が低ければ,それ以前でも追加接種を受ける.
狂犬病ウイルス感染脳をホモジェナイザーで処理中に発生したエアロゾルを吸入して狂犬病を発病した実験室内感染例が2例報告されている.第1例は死亡したが,第2例は発病したものの,失語症を残して回復している.第1例は発病の13年前に狂犬病ワクチン接種を受けていたが,抗体は陰性であった.一方,第2例は定期的に狂犬病ワクチン接種を受けていて,発病1カ月前の検査では,狂犬病中和抗体価が32倍であった.
- ヒトの輸入狂犬病対策
すでに日本では狂犬病が根絶されているとはいえ,海外の多くの国々では狂犬病が流行している.したがって,外国から日本に狂犬病が持ち込まれる可能性は常に考えておく必要がある.現状で最も発生の可能性が大きいのは,日本人が狂犬病常在地でイヌなどに咬まれて狂犬病ウイルスの感染を受け,帰国後に発病する輸入狂犬病であろう.海外渡航する日本人の数は年々増加し,すでに年間1,600万人を超えている.しかも団体観光旅行よりは個人的冒険旅行をする人々が増えているので,それだけ狂犬病危険動物に咬まれる可能性が高まっているといえる.
狂犬病動物に咬まれても,抗狂犬病免疫グロブリン注射と組織培養狂犬病ワクチン接種による曝露後発病予防を受ければ,ほとんどの場合は発病を免れることができる.しかし,現在日本では狂犬病曝露後発病予防を実施している医療機関は少数であり,しかも上記のように抗狂犬病免疫グロブリンは輸入も製造もされていないため,投与できない.
当院のワクチン外来だけでも狂犬病曝露後発病予防のため,海外での動物咬傷被害者が1998年には45名,1999年には67名が受診している.ヒト輸入狂犬病の発生を予防するためには,咬傷被害者に対して狂犬病ワクチン接種を迅速に行える医療機関を確保し,現在製造も輸入もされていない抗狂犬病免疫グロブリンを輸入ないし製造して,日本国内でも利用できるようにすべきである.
- 狂犬病感染源対策
都市型流行予防の基本はイヌ対策である.都市型流行の阻止にイヌの係留,放浪犬の処分,強制的ワクチン接種の組み合わせが非常に有効である.しかし,このイヌ対策は,地域社会の風俗習慣や宗教などに影響されるため,どの地域でも有効に実施できるとは限らない.タイでは狂犬病による死亡者数を1980年の370例から1995年には74例に減少させ,中国では1989年の5,200例以上から1995年の200例へと減少させることに成功した.これはイヌへのワクチン接種ではなく,動物咬傷の被害者に対して曝露後発病予防を徹底的に実施することによって達成されたものである.したがって,イヌの狂犬病発生は減少しておらず,感染を受ける危険は依然として大きいことに注意すべきである.
森林型狂犬病常在地で,野生動物間の狂犬病流行が拡大すれば,ヒトが直接に,またはイヌやネコを介して狂犬病ウイルスに感染する可能性が大きくなる.このため,一時キツネなどの狂犬病ウイルス保有動物の個体数を減らして狂犬病流行を阻止しようとする対策が実施されたが,ほとんど効果
がないうえ,生態系への影響が大きいため,現在では顧みられない.これに代わって野生動物への狂犬病弱毒経口生ワクチンや遺伝子組換え経口ワクチン接種が,経口ワクチンを入れた人工餌を空中散布する方式で実施されている.この方式を都市型流行に応用することはむずかしい.流行の中心であるイヌに有効な経口生ワクチンの開発はできても,目標動物であるイヌだけが食べて他の動物,特に人間の子どもが食べない餌の開発が困難だからであり,都市部での経口ワクチン散布を実施するまえには人間の子どもでのワクチンの安全性を確認しなければならないからである.
動物の狂犬病でも潜伏期は長いため,感染動物が狂犬病常在地から狂犬病清浄地に狂犬病を伝播する可能性がある.通 常,野生動物は山脈や大河などの自然の障壁を越えて狂犬病を伝播することはないが,イヌは人間と行動をともにして遠隔地に狂犬病を伝播する.日本でも1893年2月に外国人が持ち込んだイヌから長崎県で狂犬病の流行が始まり,5月までにイヌ咬傷被害者は76名,狂犬病死亡者は10名に達したという記録や,1906年青森県で日露戦争後軍人が樺太から連れ帰ったイヌから狂犬病流行が発生し,イヌ157頭,ウマ6頭が狂犬病を発病し,狂犬病死亡者が11名出たという記録がある.
近年の交通網の発達や野生動物ペット化の流行は狂犬病伝播の危険を大きくしている.検疫対象外の動物によって狂犬病が国内に持ち込まれないように,また持ち込まれても拡散しないように,イヌへの狂犬病ワクチン接 種を徹底し,狂犬病発生監視システムを確立することが急務である.そのためには,死亡原因が不審な動物について,また咬傷加害動物について,取扱指針を作成することはもとより,迅速に狂犬病検査が実施できる体制の整備が必要である.
10.まとめ
狂犬病は予防できるが,治癒させられない疾患である.狂犬病発生のない日本では,狂犬病発生ゼロを維持することが最も望ましい予防策である.動物の狂犬病発生ゼロを続けるためには,狂犬病常在地からの狂犬病動物の侵入を防ぐこと,たとえ侵入されても拡散しないようにイヌのワクチン接種率を高く維持することが必要になる.また,ヒトの狂犬病発生ゼロを維持するためには,啓蒙活動以外に,少なくとも,狂犬病常在地で狂犬病危険動物に咬まれた被害者に対して迅速に曝露後発病予防が実施できる体制の整備が必要である. |