6.アジアにおける狂犬病

  1996年9月11日から15日まで中国の武漢において,WHOとマルセルメリウ財団の共同後援により,アジア諸国における狂犬病流行阻止に関する国際シンポジウムが開催された.このときまとめられた報告書によれば,アジア諸国は狂犬病発生状況に基づいて4段階に区分できる.第1は香港のように,以前からヒトの狂犬病発生がみられない国,第2はインドネシアのように狂犬病対策が効果 をあげ始め,一部の地域で狂犬病が根絶された国,第3はタイや中国のように,ヒトの狂犬病発生が激減している国,第4は狂犬病対策が不十分で,効果 をあげていない国である.

  1. 韓国
    韓国において狂犬病は1907年に公式に記録され,急速に狂犬病発生件数は増加した.第2次世界大戦後にイヌへの狂犬病ワクチン接種と野良イヌの排除を進めた結果 ,狂犬病の発生は漸減し,1984年には発生件数がゼロとなった.しかし,1993年から再び動物の狂犬病の発生がみられ,次第に増加している.動物の狂犬病の発生地域は38度線を中心とする非武装中立地帯に近い地域に限定されている.これらの狂犬病は,非武装中立地帯で発生している森林型狂犬病流行が波及したものと考えられ,第2次大戦前の都市型流行の再発ではない.ヒトの狂犬病症例は1984年以来まったく報告されていなかったが,1999年5月に狂犬病による死亡者が1例発生した.(一部佐藤克氏の調査による) 韓国の国立予防衛生研究所は,狂犬病が疑わしい動物と接触した人々のために狂犬病ワクチン接種を行っている.1994年以降,保健福祉省はヒト2倍体細胞ワクチンを100ドーズ,および25件の曝露後発病予防に十分な免疫グロブリンを輸入している.

  2. インドネシア
    インドネシアでは,狂犬病は1884年にジャワ島西部で最初に報告された.その後狂犬病は1911年にジャワ島からスマトラ島に,1956年にスラウェシ(セレベス)島に,1974年にはカリマンタン島にまで広がった.現在までインドネシアのその他の島々は狂犬病清浄地である. 1990年には動物による咬傷を受けて治療センターを受診した約17,600人中約12,000人が曝露後発病予防を受けた.その後曝露後発病予防を受ける人の数は減り続け,1995年には約8,000人にまで減少した(予防接種センターを訪れた13,400人中).狂犬病による死亡数は,1990〜94年の間は年平均80例(範囲58〜98例)を中心に変動していたが,1995年の狂犬病死亡数は1994年の半数の36例であった. 1989年から,狂犬病流行阻止の活動がジャワ島およびカリマンタンの島で始められた.その結果 ,これらの地域でのヒト狂犬病症例発生総数が1988年の117例から1995年の36例まで減少した.さらに,一部の地域では報告症例がゼロになった.

  3. インド
    インドでは一年中,狂犬病が流行している.毎年約30,000人が狂犬病で死亡し,約100万人が狂犬病ワクチンによる治療を受けている.50万人の人々は無料で提供されるセンプル型ワクチンの接種を受け,残りの半数は有料の組織培養狂犬病ワクチンの接種を選んでいる.狂犬病の曝露後発病予防を受ける人の約35〜40%は子供である.主なウイルス保有宿主はイヌであり,狂犬病曝露後発病予防を必要とする動物咬傷症例の96%はイヌに咬まれている. 最近,狂犬病による死亡者数が明らかに増加した地方がある.狂犬病死亡者数増加の第1要因はイヌ個体数の増加と考えられている.イヌ個体数は現在1,920万頭と推定されており,大部分は飼い主のいないイヌである.犠牲者増加の第2要因は,人口密度が増大してヒトとイヌとの接触が増したことであり,第3要因は,インドでは効果 的な動物狂犬病流行阻止計画が実施されていないことであろう. インドでは毎年40,000リットルの神経組織ワクチンがヒトの曝露後発病予防用に生産されている.神経麻痺の合併症は,一般 的に曝露後発病予防を受けた人の5,000人から11,000人に1例の割合で,5回目から7回目の接種後に観察されている.ほかに,ヒト2倍体細胞ワクチン(HDCV),ニワトリ胚細胞ワクチン(PCEC),ベロ細胞ワクチン(PVRV)などの組織培養ワクチンも輸入されて市販されている.

  4. バングラデシュ バングラデシュは狂犬病常在地である.この国では狂犬病に関する正確に集計された統計的データはない.各地にある病院の診療録から,毎年約2,000人が狂犬病で死亡していると推定される.ワクチン供給記録から,毎年約60,000人が動物の咬傷を受けて曝露後発病予防を受けていることは明らかである.咬傷の95%はイヌによるものである.曝露後発病予防を受ける人の約45%は15歳未満の小児である.今では,多くの人々が狂犬病を知っているが,依然として人々は動物の咬傷を軽視して治療を受けていない.狂犬病が疑われる動物に曝露された人々のうち約20,000人は伝統的な治療を受けている. イヌの総数は不明であるが,バングラデシュには200〜300万頭のイヌが,都市や田園地域におり,その90%以上が野良イヌであると推定されている.こうした野良イヌは人間ばかりでなく,家畜にとっても危険であり,毎年約25,000〜27,000頭の産業動物が,イヌや他の狂犬病ウイルス保有動物から感染を受けている.

  5. ネパール
    ネパールは狂犬病常在地である.毎年,数件の狂犬病流行発生が異なる地区から報告され,毎年210人以上の狂犬病によるヒト死亡例が報告されている.しかし,多くの狂犬病発生事例や狂犬病症例が,意識の低さと情報網の欠如のため,報告からもれている. イヌおよびネコの狂犬病免疫には石炭酸不活化20%ヒツジ脳狂犬病ワクチンが使用されている.免疫は6カ月から1年間持続する.石炭酸不活化5%ヒツジ脳狂犬病ワクチンが,狂犬病を疑われるイヌに咬まれた家畜の治療に使用されている. ヒトの曝露後発病予防にはベータプロピオラクトン不活化5%ヒツジ脳狂犬病ワクチンが使用されている.局所アレルギー反応,神経炎,脳脊髄炎,ワクチン接種後ショックなどの副反応は人間でも動物でも発生する可能性がある.しかし,現在のネパールには,副反応に関するデータを報告する体制がない. ネパールでは,人体用および動物用組織培養狂犬病ワクチンが多数輸入され,市販されている.しかし,副反応がほととんどない組織培養狂犬病ワクチンは高価で,狂犬病の危険が大きい地域に住む一般 の人々が入手利用できるものではない.

  6. タイと中国にみる発想の転換
    日本からの旅行者ないし赴任予定者が注意しなければならないのは,むしろタイや中国のように狂犬病による死亡者が減少している地域である.

    1. タイ
      タイにおけるヒト狂犬病死亡数は1980年の370件から1995年の74件へと確実に減少してきた.このヒト狂犬病死亡数の減少は,適切な曝露後発病予防の普及度に相関している.狂犬病の主な伝播動物はイヌであり,96%以上を占める.残る4%は主にネコ,サル,さらに頻度はきわめて低いが,齧歯類と小型野生動物である. タイ国内でのセンプル型ワクチンと乳のみマウスワクチンの生産は,それぞれ1989年と1993年に中止され,組織培養ワクチンが輸入されて広く使用されている.毎年,曝露後発病予防の需要は10〜15%増加し,その結果 1994年には160,448件の曝露後発病予防が実施された(住民10万人あたり約250件).曝露後ワクチン被接種者の約10%はウマ狂犬病免疫グロブリンの注射も受けている.タイ赤十字社は現在,ヒト狂犬病免疫グロブ リン製造を開始している. 動物での狂犬病流行阻止手段としてイヌの集団予防接種とイヌの産児制限が行われている.1995年には約400万頭のイヌがワクチン接種を受け,ワクチン接種率は53%と推定される.ヒトの狂犬病発生予防手段は,ワクチン接種による曝露後発病予防,保健教育,発生調査の強化である.対策の成功には地域社会の協力が不可欠である.

    2. 中国
      狂犬病は1980年代の末まで中国のすべての地方でかなり流行しており,1987〜89年には毎年5,200例以上の狂犬病によるヒトの死亡例が報告されていた.その後,狂犬病による死亡者数は劇的に減少し,1990年には3,500例,1995年にはわずか200例までになった.現在,ヒト狂犬病症例の大部分は中国南東地域から報告されている.中国ではイヌが狂犬病の主要なウイルス保有動物であり,狂犬病による死亡者の90%以上は狂犬病を疑われるにイヌに咬まれ,約5%はネコに曝露された人々であった. ヒト狂犬病死亡者の減少は主に,ハムスター初代腎臓細胞を用いて生産された狂犬病ワクチンが広くヒトの曝露後発病予防に利用できるようになってきたことによる(毎年500万人に実施).また,一部の地域ではベロ細胞狂犬病ワクチンが輸入され,曝露後発病予防に使用されている. 地方によっては,イヌへのワクチン接種とイヌ個体数の減数による狂犬病流行阻止活動が強化されている.四川地方ではイヌへの予防接種とイヌの減数を1984〜94年の11年間(1994年まで1984年)続けた結果 ,ヒト狂犬病の発生率が人口10万人あたり1.25から0.01にまで減少した.