難産の横浜大会
モロッコ大会の中止もあって,学会本部役員会の横浜大会にかける意気込みは並々ならぬものがあった.それに加えて横浜大会はアジアで初めての大会となることからぜひとも成功させなければならず,本部役員会は大変焦っていたようで,日本側にできるだけ早く大会会長を決めて本部に知らせてくるよう性急に要求して来たらしい.1991年12月29日に,板垣 博先生(日本獣医学会寄生虫分科会会長,当時)から届いた著者への手紙には,1995年のWAAVP横浜大会の会長を引き受けてもらいたいとあった.便箋4枚にわたる手紙には,WAAVP学会本部委員会が1995年の第15回大会開催と大会会長の選出を要請してきたこと,分科会の役員に図ったところどうも断れない状況にあること,大会会長については分科会会長に一任ということになったとあった.さらに自分は年齢的にも会長を引き受けられず,在京の分科会役員の先生方に会長を引き受けてもらうべく打診したがことごとく断られてしまいほとほと困ってしまったが,ふと君が国際経験豊富だろうから,また今から準備に入れば4年後には十分に間に合うだろうからぜひ引き受けてもらいたい,とあった.
当時の状況では,世界一の経済力を誇り寄生虫学研究でも世界の一大勢力である日本が開催の要請をむげに断ることはできなかった.しかし,有力な適任者と思われる方々に断られてしまいしかも学会本部からは期限を切られて早く知らせろといわれて,板垣先生が万策尽きて私にまで打診してこられるような状況にあるならば,私にはそれを断るわけにはいかなかった.しかし,いずれは板垣先生を大会会長に実務はわれわれ若いもので進めて行きたい旨申し入れておいた.私は,WAAVP学会にはそれまでにも何回か出席しており,WAAVP学会本部委員会との間の対外的交渉ごとに関しては大きな不安は特になかったが,国内的には問題山積であった.
第1には開催資金の確保であるが,寄付の依頼活動を始めてみると日本の企業にWAAVP学会のことは意外と知られてなく,まず本学会のことを知ってもらうために企業への挨拶に多忙を極めた.それに加えて同じ1995年に世界獣医会議横浜大会の開催準備を始めている日本獣医師会との打ち合わせや横浜市国際学会担当係それに学会開催請け負い業者との連絡で忙殺された.2年後の1993年にはどうにか会場経費や企業援助額の試算に目処が付きはじめ,さらには日本中央競馬会への援助依頼や農水省と厚生省への開催後援認定の手続きも済ませた.第14回ケンブリッジ大会の総会では次期大会会長としてインビテーションスピーチを行うなど,次期大会への参加勧誘のためのいくつかのセレモニーをこなした.この2年間に,WAAVP学会Slocombe会長(当時)(カナダ,ゲルフ大学獣医学部)と交わした手紙とファックスは綴ると1冊の本になるほどであった.この後日本側開催委員会が改編され新会長の鈴木直義先生(帯畜大)にバトンタッチして肩の荷を降ろすことができた.新会長の指揮の下,横浜大会が盛会のうちに終了し,アジアで初めての第15回大会の成功の気運が,アフリカで初めての第16回大会(前述)の成功へと引き継がれて行ったことは周知のとおりである. |