わが国とハンタウイルス感染症の歴史的背景
わが国とハンタウイルス感染症,特に腎症候性出血熱(HFRS)とのかかわりに関する歴史的背景を表3にまとめた.腎症候性出血熱は第二次世界大戦中,中国の旧満州に進攻した日本軍兵士に大流行し,日本軍軍医団によってげっ歯類媒介性のウイルス性疾患であることが明らかにされ,流行性出血熱と命名された[2].日本国内では,1960年代に起こった大阪梅田駅周辺の住宅密集地区での流行が記録されている.流行状況から,ドブネズミを感染源とする都市型の流行と考えられている[23].1970年代になり,同地区の再開発が行われた結果,発生は終息し現在に至っている.しかし,代わって,実験動物のラットを感染源とする実験室型の流行が全国21研究機関の動物実験施設を中心に発生し,1名の死亡者をふくむ126例が報告された.また,発生にともなって各施設で大量の実験動物の処分が繰り返されたことから,教育・研究への計り知れない損害がもたらされた.これを契機として人獣共通感染症に対する関心が高まった[12].1976年,韓国の李鎬汪ら[17]は,腎症候性出血熱(韓国では韓国型出血熱と呼ばれていた)の原因ウイルスを流行地で捕獲されたセスジネズミから分離することに初めて成功した.そして,捕獲地を流れるハンタン川(Hantaan river,漢灘江)の名前にちなんで,このウイルス株をハンタンウイルスと命名した.1982年2月,WHO(世界保健機関)は東京で本症に関する研究集会を開催し,以後分離された類似ウイルスをハンタンウイルスの名の下にハンタウイルス(Hantavirus)と総称することとし,本症を腎症候性出血熱(Hemorrhagic Fever with Renal Syndrome)と呼称することを決定した[24].
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