ゲノムをデザインする

 この逆位の例のように,枯草菌のゲノム構造をかなり大幅に変換することが技術的に可能である.図1に示した操作法はそれらの例にすぎないが,これ程までシステマティックにゲノム操作法が適用されたバクテリアは枯草菌だけであり,この分野では独走状態にあると自負している.例えば巨大なDNAの組み込みに関しては,他種のバクテリアゲノムを対象にすれば2つの完全なゲノムが融合するハイブリッドゲノムが目標になる.比喩的に言えば2つの独立したパソコンのOS(operation system)を融合させて1つの細胞中に入れたら何が起こるかを知りたいのである.そこからは誰も見たことのない新しいフロンティアがかいま見えるかも知れない.そんな話を持ちかけると,現代風の分子生物学者は転写制御の問題うんぬんでそんなことは不可能だ,ばかばかしいとただちに否定的になる傾向にあるのを常々経験している.ハイブリッドゲノム構想は見方を変えれば大型の水平伝播であり,自然界では日常茶飯のことであるかも知れなく,著者はそこに研究者としての大いなるロマンを感じ,誰よりも早く見てみたい衝動に駆られるのだが読者の方はいかがでしょうか.大気中を微生物やカビの胞子が塵や埃とともに漂い,微生物自身の移動範囲も戦争,文明の拡大,都市化,さらには交通機関の発達によって従来より広がる傾向を見せており,新しい微生物どうしが接触する機会は飛躍的に増えている.水平伝播とその結果生じる新環境への適応戦略の解明は21世紀にはますます重要になると考えており,筆者の考えるゲノムデザインとはまさに(実験室内という限界はあるが)種の多様性を構築し,培養不可能なバクテリアも含めたバクテリアゲノム構築の設計図を手に入れるための切り込み口だと位置づけられる.
  少なくとも現時点でのバクテリアゲノム解析の結果は,大ざっぱに言ってその遺伝子産物の機能が判明している,つまり酵素や構造タンパクとして固有の名前が付いているものは約半分.残りのまた半分は機能は全く未知だがほかのバクテリアにもある遺伝子らしい.そして残りは本当に全くわからない遺伝子である.「似た機能を持つ遺伝子はアミノ酸配列も似ている」のは今世紀後半を席巻した分子生物学の大きな成果である.しかしながらアミノ酸配列で他の微生物に類似の配列が見あたらない例がバクテリアゲノム当たり4分の1近くあることは正直言って筆者も驚いている[5].しかしこのことはまだ膨大な数のわれわれの知らない遺伝子があるということで,それらは個々のバクテリアが生存環境を生き抜くために持っている遺伝子と説明されている.異なる環境から得られたバクテリアは独自の一群の遺伝子を持っていることになり,数種類の代表的なバクテリアの全ゲノム遺伝子だけを知れば事足りるという見通しはやがて過去の遺物となるかも知れない.
  上述したように純粋培養できないバクテリアが非常に多いということは,機能未知の遺伝子,言い換えれば種特有の遺伝子が今後も続々と出てくる可能性がある.比喩的に言えば今のわれわれは,西インド諸島を発見してこれがインド大陸であると宣言しているコロンブスのような立場なのかも知れない.ゲノム全塩基配列決定は目的ではなく,始まりである.1つの種を構成する遺伝子全部の機能を明らかにして,生物の全体像を解明するのが目的である.ゲノム全塩基配列決定のもう一つの大きな課題は「種の多様性の解明」であり進化と深く関連し,地球史におけるバクテリアの役割,位置づけを目指すものである.どちらも前人未踏の領域であり,特に若い研究者に託される今後の研究課題だと思う.21世紀は間違いなくバクテリアの世紀であり,手がかりをつかみかけているのである.