バクテリアゲノム解析

 人やマウスのゲノムサイズ(通常塩基対数で表現する)は約30億塩基対,これに対してバクテリアでは最小の寄生性の細菌であるマイコプラズマが58万塩基対[8],中型のバクテリアゲノムである枯草菌[17],大腸菌[1]が420万〜470万塩基対である(表2).枯草菌と人とのゲノムサイズの違いは長さにするとよくわかる.人の23本の染色体を一列につなげるとおよそ1mに達するが,枯草菌の場合はおよそ1.3mmで約千倍くらいの差がある.しかしながら含まれる遺伝子の数は枯草菌で約4千個[17],人やマウスでは数万個と見積もられており,およそ10倍くらいの差でしかない.ゲノムサイズと含まれる遺伝子数に比例関係がないのは,遺伝子構造と大きく関係している.バクテリアでは1遺伝子の大きさは平均すると大体千塩基位であるが,イントロンを多数持つ高等動植物では1遺伝子が10万塩基を超す例もしばしば見られる.また遺伝子の間の距離もバクテリアでは数塩基対から数百塩基対(オペロン構造をとっていたりするともっと小さい)で,例えれば都市のスラムの住宅のように近接している.これに対して,高等動植物では隣り合わせた遺伝子の間が数十万塩基対以上離れている場合もあり,隣家を訪れるのに飛行機を使うオーストラリアの農家のようにゆったりとしている.
  このような知識は10年前は断片的だったが,バクテリアのゲノムの全塩基配列が決定されるようになった1995年から急速に確定してきている.微生物だけでなく動植物までの代表的な種について染色体(ゲノム)の解析が世界中で大規模プロジェクトとして現在進行中であり,バクテリアだけに限っても1998年6月現在ですでに13種の全塩基配列が決定され発表されている(表2).バクテリアが持っている全遺伝子が明らかにされたことにより,遺伝子構成,ゲノム構造,種による違い等が塩基配列のレベルで直接比較できるようになった意義はきわめて大きい.現在は新しいゲノムの全塩基配列が毎月のように明らかにされているラッシュ状態で,それに伴って新たな疑問が数多く生じてきている.従って今の時点でとても教科書的な記述は望める状態ではないが,本稿に関することで次の2点は明確になっている[5].一つは機能がよくわからない遺伝子がどのバクテリアでも約半数を占めることで,もう一つはゲノム構造の可変性(可塑性)である.バクテリアは遺伝子の配置に特に規則性がなく種の多様性がそのままゲノム構造の多様性であり,遺伝子の非常に頻繁な交換(遺伝子の水平伝播)が生じたことが示唆されている.今世紀末までに50種を超えるバクテリアの全塩基配列が決まるとの予想を考えると,この分野の本格的な発展と成果が望めるのは21世紀になると思う.重要なことは研究の方法論も21世紀の方法論が必要なことであり,著者も非力ながらゲノム全体をどうとらえるかという視点からの取り組みをしているつもりである.では21世紀の方法論とは何なのか.その中の一つはゲノムを操作することでありゲノムをデザインすることである.

ゲノムを操作する

 ミュータント,変異体とは今日的な意味では特定の遺伝子の塩基配列が変化したことを意味する.そして塩基配列の変化は野生型と区別できるさまざまな表現型を伴う.筆者はここ10年程,ゲノムの構造が変わることによっても表現型がさまざまに変化する可能性を考えてきた.ゲノム構造変化によって遺伝子の塩基配列には変化がなくとも,遺伝子の位置や方向が大幅に変わる.位置や方向が変われば遺伝子の発現が何らかの影響を受け,その結果によっては新しい表現型が出てくるのではないかというアイデアである.ゲノム構造を変えることによって新しいバクテリアを人工的にデザインできるかもしれないと考え,このアイデアを検証するために枯草菌を材料にして,ゲノムを自由に構造改変するための操作法の開発を続けてきた[14].その結果現在までに図1に示すような3種の基本操作法を確立しており,それらは(1)遺伝子の水平伝播を意識して,枯草菌ゲノムに外来のDNAを組み込むこと,(2)複数ゲノムを持つバクテリアのゲノム構造の多様性を意識して,枯草菌ゲノムを分断して複数のゲノムにすること,および(3)ゲノム構造の可塑性を意識して,枯草菌ゲノムの一部を逆位させることである.
  特に,この総説の執筆時点で明確になっていることは逆位に伴う新たな性質が出てきたり,遺伝子発現のダイナミックな変動が観察されていることである[14].この意味するところをひと言で述べると,ゲノム構造変換は遺伝子発現のタイミングや量的変動を引き起こし,生存環境変化に対応できる遺伝的多様性を生み出している可能性があることである.今後二重三重の逆位を引き起こすことによって,遺伝子の塩基配列は枯草菌由来だが,元のゲノム構造とは似ても似つかぬゲノムを持つ枯草菌をデザインして作り出し,ゲノム構造変化が新しい環境変化に適応できるかを検証する系を作りたいと考えている.