身近でないバクテリア

 バクテリアは水中(川,沼,湖,海洋中)にも生息するのはもちろんのこと,塵や埃について大気中を移動中のものまで加えると想像を超える多種多様のバクテリアが地球上のいろいろな場所に生息しているのがおわかりいただけると思う[9].さらに高等生物はとても生息できそうもないような高温,低温,酸性,アルカリ性,飽和食塩濃度水でも堂々と生活しているバクテリアも多数知られている[18].極限環境微生物と呼ばれる彼らを含めると,バクテリアの生息環境の多様性にただただ驚いてしまう.また種類の多さだけではなく量的にも,地球上のバクテリアの全重量は被子植物のそれと同じくらいとされている.地球規模でのC(炭素)N(窒素)O(酸素)の物質循環に深くかかわっているのもうなずける.身近でないバクテリアを論ずるとき正しく理解しておいていただきたいことが二つある.一つは,異なる環境では異なる種類のバクテリアが生息することである.もう一つの重要な点は,微生物学者でも地球のバクテリアの全体像をいまだに知らないことである.大腸菌をバイオテクノロジーの道具として用いている人達にとっては,バクテリアとは大腸菌のことであり,いつでもどこででも思うままに大量に増やせると思いこんでいるようだが,実際は多くのバクテリアの成長は遅い.遺伝子工学で使用する大腸菌は成長が最も速い部類に属するので誤解は無理もないことかも知れない.さらに大きな誤解は,自然に生息するバクテリアはすべて純粋培養できると一般に受け取られていることであろう.実は自然界から分離することができて,何らかの形で研究が行われてきた微生物は自然界に生息している微生物のごく一部である[9].ある見積もりによると,われわれが知っているバクテリアの種類は地球上の全バクテリアの1%以下かもしれないという.この比率は藻類では70%,原生動物では40%程度が知られているのと比較しても異常に低い.従って以下の解説は純粋培養できて調べることができたバクテリアに関してのごく一部の話だとの前提で読んでいただきたい.

バクテリアゲノムの多様性(ゲノムの構造から見て)

 自然に生息するごくごく一部のバクテリアしか分離されていないとは言っても,すでに分類され記載されているバクテリアは3,000種を超す.それらのバクテリアの性質のなかで,本稿ではゲノムの話題に絞って進めて行きたい.ゲノムとは,個々の生物がもつ全部の遺伝情報が載っているDNA全部を指すと思っていただければよく,少し前までは染色体とも呼ばれていた.人を含む酵母やカビ以上の真核生物では染色体(ゲノム)は細胞質から隔てられた核の中にあり,分裂期には高度に凝縮して理科の教科書でおなじみのミミズが2匹寄り添ったような形状をしている.これに対し,原核生物であるバクテリアのゲノムは細胞質中に存在し,2本鎖DNAが環状につながっている輪ゴムのような単純な形態であると思われていた.環状2本鎖というバクテリアゲノムの形態は,大腸菌および枯草菌を用いて1950年代に明らかにされ,その後他のバクテリアについても調べた限りでは環状であったことから,大腸菌や枯草菌ゲノムの形態がバクテリアのゲノム形態を代表しているという“類推”がいつのまにか定着して常識のように広まってしまった.しかし現在はこの常識は多少の修正が必要になっている[13].報告されているバクテリアゲノムの形態を表1にまとめた.
 ここですぐ目につくのは線状ゲノムを有するバクテリアの発見である.タイプ4のような線状ゲノムをもつバクテリアは今はまだ放線菌やリケッチャの一種などに限られており例外的なのかもしれない.しかし少なくとも10年以上前に真核生物のゲノムは線状(つまり両端がある)で,原核生物ゲノムは環状2本鎖(端がない)であると教わり,そうかバクテリアのゲノムには端(はじ)がない,つまり端を知らない恥知らずゲノムと覚えればいいと思いこんでいた筆者にとっては驚きであった.
  さて表1でもう一つ注目していただきたいのは,バクテリアは細胞当たり通常1つのゲノムと核外因子(プラスミド)をもっていることである.タイプ1に属するバクテリアのプラスミドのサイズは,小さいもので数千塩基対,大きいもので160万塩基対に達する.しかも1つの菌株が複数種のプラスミドをもつ例が多い.さらに驚く点は細胞当たりサイズの異なる“複数のゲノム”をもつタイプ2の例が報告されていることである.このようにバクテリアは,ゲノム形態に関してだけでも単純ではなく,単細胞だから単純であるとゆめゆめ思ってはいけない.形態一つとってみても今後どのような常識の変化があるかは実は筆者のひそかな楽しみである.
  ゲノムの多様性に関するもう一つの重要な点は自然界ではバクテリアどうしの間で遺伝子(DNA)の交換を頻繁に行っていることが理解されてきたことである[19].水平伝播と呼ばれる種を越えたDNAの移動の結果何が起こるのだろうか.高等動植物でも異なる種間で交配を起こして雑種が生じることで長大なDNAの入れ替えは達成される.バクテリアでも事情は同じで多少でも異なる種間で水平伝播が起これば,異なる性質のキメラバクテリアが自然界では頻繁に生じていると考えてもおかしくない.ここから先は筆者の想像であるが,異なる種間で表1に示すような巨大プラスミドや,あるいは極端な場合ゲノム全部が出たり入ったりする水平伝播を組み合わせれば,バクテリアゲノム形態の多様性を説明できるのではないかと考えている.問題はそれを実験室,野外を問わずいかにして実証するかであるが,紙数の関係でここでは触れないでおく.