バクテリアのゲノム解析とゲノムデザイン

板 谷 光 泰

三菱化学生命科学研究所(〒194-8511 町田市南大谷11)

Designing of Bacterial Genome Structures after Genome Sequence Analysis
Mitsuhiro ITAYA
Mitsubishi Kasei Institute of Life Sciences, 11 Minamiooya, Machida, Tokyo

は じ め に

 生命科学という言葉が一般の人々の間にもすっかり定着してきた感がある.多くの方は「生命」と聞いて,まず思い浮かべるのは哺乳動物,鳥,昆虫等いわゆる身近な動くもの,自然に生息する生き生きとしたものであろう.次いで動きの少ない植物,水中の魚類,エビやクラゲまで思い至る.しかし小さな寄生虫,原生動物を生命体としてあげる人はまれになり,カビ,バクテリアまで思いを巡らせる人は世間知らずであろうか.さらに言えば,生命という言葉から真っ先にバクテリアを連想する人は相当マニアックなやからとして分類されかねない.一般にカビとバクテリアは「黴菌(ばいきん)」として一括処理されがちで,「生命」という美しい神秘的な響きとは全く逆に人間にとってどうしようもないもの,悪影響を及ぼすものとしてひとくくりにされかねない.ひとくくりにされかねないから,この区別を説明してわかってもらうのに苦労することが多い.それでも最近では,大腸菌O(オー)157,サルモネラ等の病原微生物が新聞紙上をにぎわせている分だけ初心者向けの講義ではバクテリアとは何かを説明するのにO157を紹介するだけで済んでしまうようになった.
  もっとも,バクテリアの実態が生命体であると理解され始めたのは19世紀の後半パスツール,コッホ達の時代からであり,ギリシャ時代から哲学/科学の思想体系に組み込まれている,人を中心とする動植物への認識の歴史とはその重みが違う.また歴史的には微生物が19世紀から20世紀初頭には主として医学の領域だったのが(これは主として病原性微生物ハンター達の業績によるもののようだが),20世紀の終盤ではバイオテクノロジーに必要不可欠な道具の一つになっている.しかし単なる歴史の重みだけではなく,器官や骨格形成に代表される発生分化のプロセスを見ると,単細胞生物であるバクテリアより多細胞生物である高等動物の方が複雑な仕組みを持っているのは事実である.それは事実ではあるが一方で,「多細胞で複雑」だから「高等」であるとのストレートな思いこみが一般の方達だけではなく,研究者,学者の間に満ち満ちているのはいただけない.「高等」生物の研究をしている研究者は高等な研究をしており,下等「単細胞」を研究している研究者は「下等」であると受け取られかねない光景を著者も何度か体験しているが何をかいわんやである.確かにバクテリアは1個だけを見ていると単純そうに見えるけれども,実は多種多様なバクテリアが人の1個体から地球規模の生態系に至るまで複雑に絡んでいることに思い至れば,実はバクテリアの世界こそ複雑で生物の多様性の代表と言っても過言ではない.

超(兆)身近なバクテリア

 ところで,われわれの身の回りにいったいどのくらいのバクテリアがいるのだろう.人の体表面(頭のてっぺんから足の先まで)には実にさまざまなバクテリアが生存している.また口から肛門までの消化器官にも多種多様なバクテリアがおり,例えば人の腸内には健康な大人1人当たりにして約100種類,総数100兆個のバクテリアが住み着いている.人の体の細胞数は脳細胞も含めても約80兆個といわれているので,私達は自分の体細胞数よりも多い外来性のバクテリアをせっせと毎日飼育しているのである.また毎日のように踏みしめる足下の土(土壌)は,岩石とは違って多種のバクテリアの生理的な営みによって造られる.この土壌1g中には実に10億個近いバクテリアが生息していると考えられており,数だけを取り上げると中国の総人口に匹敵する数のバクテリアが1g中にいることになる.原っぱで草野球やサッカー等に興じて泥まみれになっている児童たちを見ると,土にまみれて育つとは,実は意識しないうちにバクテリアと親しくなっていることにほかならないと思ってしまう.