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−海外で活躍する獣医師(VIII)−
グローバル・コラボレーション
〜個々の連携,産学の連携,そして国と国との連携〜
現在筆者はミネソタ州立大学獣医学部臨床疫学科豚病撲滅センターに研究員として籍を置く傍ら,養豚専門獣医コンサルティングとして日本の養豚生産者や関連企業をクライアントに持ち仕事をしている.筆者の現在の活動内容とそこに至るまでの過程を読者の皆様と共有させていただくことにより,筆者の考える畜産業界のあり方,そこに関わる獣医療と大学研究・教育の役割について知っていただく機会となれば幸いである. | |
2 養豚産業という世界 筆者は新潟の養豚家の長男として生まれた.大袈裟ではなく文字通り物心ついた頃から農場で父の手伝いを毎朝の日課として小・中・高校に通っていた筆者にとって,将来の自分の職業を養豚産業界に求めたのは非常に必然的な流れであったと言えよう.ここで本音を言えば,幼い頃は農場現場での肉体労働や周囲が畜産業に対して持つ典型的な悪いイメージ(汚い,臭いなど)を受けて不快に思うことも決して少なくなかった.しかし現在はっきりと自信を持って言えることは,獣医学術的にもビジネス的にも非常に興味深く将来性のあるこの養豚産業の存在に幼き頃より身近に接することができて筆者は本当に幸運であった,という事実だ.環境に恵まれ,麻布大学獣医学部獣医学科に進み獣医師免許所得を志した動機の全ては,将来は養豚産業での仕事に携わるという一点のみにベクトルが向いていた. 誤解を怖れずはっきり申し上げるが,養豚専門獣医師としての仕事をするのでなければ,筆者は獣医師という仕事に対し全く興味を持たなかったであろう.その意識は現在も変わらない.日本では獣医師という職業は小動物臨床の分野が圧倒的にメジャーであるようだが,養豚を始め日本の畜産専門獣医師のニーズと将来的可能性は現在の小動物臨床獣医師の比ではない.畜産獣医師が発揮できるポテンシャルは日本の現状では非常に軽視されているように思う.この原因は多々あると思うが,最も大きな根本的原因は,「そんな業界があるなんて,単純に知らなかった.」というシンプル極まりないことではないだろうか.後述するが,このように学生に動機付けや選択枝を提示する役割は,本来は大学が担うべき重要な使命であったはずだ. 少し話しが逸れたが,いずれにしても,養豚産業の存在について一早く気づくことができたこと,即ち養豚経営者である父の存在があったことが,現在の筆者を形作った根本的土壌としてあるということをここでは強調したかった次第だ. | |
3 学ぶことの楽しさ:「知る」ことは自身が「変わっていく」こと 麻布大学獣医学部へ進学したのと同時に,卒業後はアメリカの大学院で養豚の勉強をしようとその頃すでに心に決めていた.とにかく養豚の分野でキャリアを積みたいという意識が強かったので,「養豚大国アメリカ」は筆者にとって非常に魅力的であった.今思うと,将来の具体的なことはあまり考慮することもなく,とにかく漠然とした上昇志向と向上心のみが大学時代の自身のモチベーションであったような気がする.実家に帰ればいつでも生きた養豚業を体験できる環境があったこと,そして卒業してから本格的にアメリカで養豚の勉強を積むとすでに決めていたことから,当時の麻布大学獣医学部在学中に養豚学について全くといっていいほど触れる機会がなかったという事実は,皮肉で言うのではなく,筆者にとっては全くフラストレーションにならなかった.むしろ,卒業したら養豚漬けになること間違いないのだから,大学在学中はもっと視野が広く基礎的な力を付けたいという意識から,縁もあって病理学研究室兼生物化学研究室教授(当時は助教授)の代田欣二先生に師事した.今思えば,この選択が大正解であった.筆者の人生における転機の一つとなった.同期のすばらしい仲間にも恵まれた.知識や技術ではなく,「何のために,そのことを知らばければならないのか?」という筋道付けと「自分自身で勉強する方法」というノウハウを学んだ.その後のアメリカでの大学院時代でも,さらに現在の独立開業でビジネスを行っている上でも,その頃に自身の中で確立できた意識と方法論が脈々と生きている. 奇妙な縁で,現在,筆者も正会員の一人である日本養豚開業獣医師協会(JASV:Japanese Association of Swine Veterinarians)と麻布大学とのコラボレーションであるPCC(Pig Clinical Center)という養豚産学連携プロジェクトの中で代田先生と病理診断に関わるお仕事をご一緒させていただいていることは個人的にも大変嬉しい限りである.人の繋がりというのは,いつどこで自分自身に帰ってくるか解らないという哲学を身に染みて感じる次第だ. | |
4 産業ありきの学問: 「現場で活用できなければ,その学術情報は意味がない」 麻布大学を卒業して国家試験も無事終わり獣医師免許を取得した2週間後,晴れて念願のアメリカ留学と相成った.渡米して1カ月もすれば字幕無しで映画も簡単に見れるほどになるだろうと英語を完全になめきっていた筆者であるから,当然まずは事あるごとに英語・英会話でつまづいた.大学院入学に必要なTOEFL試験に何度も落第し,無事目的の学部の大学院への入学が決まったのは筆者が渡米してから半年以上も経過していた.しかし,その当時は不思議と焦りや不安は全く無かった.今思えば,比較的若くして渡米したこと,会社や大学研究機関などのいわゆる“ひも付き”で渡米したわけではないことが非常に良かったのだと思う.したがって,不必要に目先のことに一喜一憂することもなく長期スパンで自身の将来キャリアを見据えながら,日本社会の固定観念とでも言うべきノイズから良い意味で隔離された心境の中,マイペースに私生活・勉強生活を送ることができたように思う.アメリカの大学院の特徴といえば,まず,大講座制である日本の獣医学部と異なり,アメリカの大学院はいわゆる小講座制であるという点が上げられるだろう.教授の数だけ講座が存在し,一人の教授と極めて少数の大学院生だけがまさに二人三脚で仕事をする.大学院生はリサーチアシスタントとして給料を貰いながら仕事をするので,学生と言えどもプロフェッショナルな意識がそこに生まれる.結果を出さなければ本当にクビを切られる.逆に,大学院生に給料も払えないような研究費の乏しい実力の無い教授からは,当然,大学院生はどんどん去っていく.そんなシビアな環境下で正味5年間勉強することができたことは,現在はもちろんのこと今後将来においても大きな励みとして筆者自身の血肉となっている. 話を本筋に戻そう.養豚大国アメリカで養豚の勉強をしたい,特に現場に密着した応用研究が強いところという理由でミネソタ大学獣医学部臨床疫学科を選択した.そこで現在の恩師でもあるスコット・ディー博士と出会う.陳腐な言い回しになることを承知で敢えて表現するが,これがまさに運命の出会いであったと思う.現在の筆者の仕事のスタイルを決定づける一大転機となった.ディー先生は大学に教授として戻ってこられる以前は,養豚専門獣医師として自身のクリニックを経営し現場で10年以上も経験を積んでいた方である.そんな彼の研究の視点は常に「現場で今どのような情報が必要とされているのか.今すぐ現場で役に立つ研究知見を提供する」という一点のみに軸を置いていた.ちょうど筆者がミネソタ大学大学院で本格的に研究を始めた2000年に,ディー先生を始めとする当大学の養豚専門研究者が一つのチームとなって豚病撲滅センターが設立された.筆者もそのメンバーの一員となり,北アメリカ・日本も含めた世界養豚業界において現在最も経済的被害の大きい疾病であるPRRS(豚繁殖呼吸器障害症候群)ウイルスの伝播疫学とそれを防ぐための実践的農場防疫法(バイオセキィリティ)の研究を行った.このセンターの大きな特徴と存在意義は,「大学を通じて上から降りてくる研究費は1セントも無い.すべての研究費・センター運営費は自分達が産業(生産者団体,製薬・種豚・飼料メーカー,獣医クリニック)から直接交渉により捻出してくる」という点だ.すべての研究費は養豚産業から直接提供されるので,必然的に産業現場で役に立たない研究は存在しないシステムとなる.また研究機関と現場とを結ぶ情報普及部門(エクステンション)の重要性が非常に大きなウェイトを占めるようになる.これは本来の大学と産業との在り方を考えたときに,至極当たり前のことであるはずなのだが,日本の大学・研究機関の固定概念しか持っていなかった当時の筆者にとって,この豚病撲滅センターのシステムと存在意義というのは,決して大袈裟ではなく,まさに天地が逆転するほどの衝撃であった.「産業に貢献するための研究.そのために大学は在る.」という真理を,このときに身に染みて学んだ. |