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解説・報告

 2 控訴審における獣医師Aの主張
 これに対し,獣医師Aは控訴審において次のように主張した.
 (1)本件手術において,本件馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針を残置したが,針の残置と本件馬の死亡との間に因果関係はない.
 (2)本件馬の感染機序は血行感染であり,術中感染ではない.
 (3)本件馬の体内にあった縫合糸の中には,本件喉頭形成術に必須の縫合糸が含まれている.
 (4)本件馬の感染源となった縫合糸は,本件手術に使用された縫合糸であるのかどうか,証拠上明らかではない.
 (5)本件馬の感染源が,仮に本件手術において適切に使用された縫合糸であるとすれば,そもそも血行感染は本件手術と無関係に生ずるものである以上,獣医師Aの行為と本件馬の死亡との間には因果関係はない.


 3 高等裁判所の判断
 高裁では,まず「感染症」について以下のように認定した.「感染症」は大きく分けて,ある部位に菌が付着してそこを感染源として症状が悪化するもの(術中感染など)と,ある部位で発生した菌が血液を介して体に回り感染症が広がるもの(血行感染)の,2種類に分かれる.一般的に,動物を手術する際に菌の付着可能性をゼロにすることはできない.したがって,獣医師としては手術室を清潔に保つほか,可能な限り手術時間を短くし,縫合糸などの異物を可能な限り少なくする努力をする.また,動物は自ら菌を倒す免疫力があり,これが有効に機能しないときに初めて感染症になる.異物がある場合は免疫力がうまく働かず,その結果,炎症が治らず「瘻管」が形成される.「瘻管」とは,慢性化膿性疾患であり,化膿が生じてから瘻管が形成されるまでには,相当長い時間が必要である.一方,血行感染は体内のどこかにある感染部位から菌が血液循環に乗って体中に回り,もともと菌が生じた感染部位とは別の場所で新たな感染症を引き起こす.そして最終的には,敗血症から多臓器不全などの重篤な症状を引き起こす可能性がある,とした.
 次に,獣医師Aの本件手術における手技その他の過失については,一審の地裁判決における(前記の)認定を維持した.
そして,その過失と本件馬の死の因果関係については以下のように判断した.
 (1)本件針に接触する組織全面に壊死や化膿はなく,本件針にも腐食はなかった.また獣医師B及びDは,本件針自体が化膿性炎症を引き起こしたとは認められないとの見解であった.さらに,体内に手術用の針が残置されていても生きている繁殖牝馬の実例がある.したがって,「本件針の残置のみをもって,本件馬を死亡に至らしめた左側喉頭部周囲全域に及ぶ結合組織の肥厚(増生)の原因と認めることはできない」とした.
(2)本件馬の呼吸困難の原因は,披裂軟骨小角突起の変形による気道閉塞である.この変形は,左側喉頭部周辺全域に生じた結合組織の肥厚が原因であり,この肥厚は,当該部位に炎症が発生したことが原因である.そして,左側喉頭部周辺全域に発生している炎症は,感染症に罹患したためと推認される.これに対し獣医師Aは,本件馬の感染機序は血行感染であると主張したが,本件馬には呼吸器以外に特に重篤な症状が出ていたことを認めるに足りる証拠はない.従って,本件馬の炎症は血行感染によるものとは認められない,とした.一方,認定事実によれば,獣医師Dが2回にわたって本件馬から摘出した縫合糸(エチボンド)は,本件馬の喉の部分に形成された当該排膿部に続く瘻管内にあったのであるから,これがいわゆる異物として本件馬の免疫力を低下させた原因であると推認することができる.そうすると,本件手術が通常に比べて長時間を要したため,手術部位が雑菌にさらされる時間も長くなり,このため手術部位に通常よりも多くの雑菌が付着し,これに加え,獣医師Aが残置した本件糸が免疫力の低下を招き,炎症が発生し,瘻管が形成され,本件馬の左側喉頭部周辺全域に結合組織の肥厚を生じ,呼吸困難に陥ったということができる.したがって,「本件糸の残置と本件馬の死亡との間には因果関係がある」とした.
 最後に,損害賠償金の認定は以下のようになされた.[1]獣医師Aの過失によって本件馬の容体が悪化しなければ要しなかった支出として,治療関係費38万余円,輸送費26万余円.[2]ばん馬としての賞金獲得可能性と引退後の馬の交換価値を分離して計算すると,休業損害178万余円(1レース当たり平均22万余円×8レース),死亡逸失利益784万余円(平均引退時期は8.2歳),種牡馬としての価値822万余円.これに弁護士費用200万円を加え,2,051万余円の支払を命じた.

 4 考察
 産業動物診療に関係した獣医療訴訟の判決は非常に珍しく,本件は検索できた中では初の事例であった【11】.また,唯一の最高裁決定でもあり,その意味するところは大きい.
 本件馬の罹患した喘鳴症(喉頭片麻痺)は,運動中,吸気時に異常呼吸音を発する疾病である.安静時には異常を認めない.重種馬にとっては運動不耐性や呼吸雑音を引き起こす最も一般的な疾患であり【1】,ばん馬においては,3歳(明け4歳)時に48.7%が罹患しているという【14】.原因は遺伝性疾患説,反回神経麻痺説,呼吸器感染起因説,鉛中毒説などあるが不明な点が多い.診断は稟告が最も重要で,正確な診断には内視鏡検査が用いられ,披裂軟骨の開帳不良が確認される.その内視鏡検査所見により評価され,Hackettら【2】の分類法によれば,グレード4(最重度)とは安静時に左右披裂軟骨が顕著に非対称で,呼吸時に左側披裂軟骨が全く動かないものである.この喉頭片麻痺は,馬の競走能力に多大な影響を及ぼす【15】.治療は,外科的に披裂軟骨の位置を矯正する喉頭形成術が有用であると報告されており,経験豊富な外科医の施術により,90%の症例で症状の改善がみられるという【1】.競走成績にも効果が見られる【12】が,術後に慢性発咳,癒合不全,瘻管形成などが起こり,再手術が必要となることもあり【1】,喉頭形成術の成功率は,喉頭片麻痺の程度や外科医の経験によりかなりの幅がある(5〜90%)【6, 18】.術後は,4〜5日間は抗生物質を投与し,4〜8週間は舎飼いとし,本格的なトレーニングは少なくとも術後3カ月経過してから開始することが望ましいとの報告がある【17】.
 本件馬は,初回および本件喉頭形成術ともに,術前評価や術前管理について判決文からは判然としない.本件手術は再手術であり,手術時間が長かったことから,難易度が高かったと想像される.術後管理については,執刀獣医師Aから特段の処方がなされてはおらず,数日間は他の獣医師から抗生物質を投与されたものの,術後は複数の厩舎へと移動され,継続的な診療は行われていなかった.獣医師側は馬主の管理が不行き届きであったと指摘したが,裁判所は「本件馬の術後管理において,通常の水準以下であったことをうかがわせる事情は認められない」と判断した.
 本件手術で過失と認定された“体内への異物(縫合針及び縫合糸)の残置”は,人の医療においては刑事責任を追及されることもあり【7】,民事裁判では約3分の2が有責とされている【16】.厚生労働省が指導し,収集分析しているインシデント(患者に被害を及ぼすことはなかったが,日常の診療の現場で“ヒヤリ”としたり,“ハッ”とした経験を有する事例)・アクシデント(医療に関わる場所で医療の全過程において発生するすべての事故のうち,患者に何らかの被害が及んだ事例)報告の中でも,手術部門におけるアクシデントとして,腹腔内へのガーゼの残置,縫合針や手術器械の先端の破損,内視鏡手術での止血クリップの体内への置忘れなどが複数みられた【13】.そこで,再発防止策として,“ガーゼ・器械のカウント”が行われている.この時の要点は以下のとおりである【20】.[1]手術前と閉創前にガーゼカウント・器械カウントを徹底する.[2]ガーゼカウントは2人でダブルチェックを行う.[3]ガーゼカウント時は声に出し,医師・看護師間で正確なカウントを行う.[4]使用済みガーゼは1枚ずつ離して,形状が元通りであることを確認する.ガーゼはカットしない.[5]手術終了時にはカウント合致を確認して,カウントの結果を手術記録用紙に記載する.以上をふまえ,長時間の手術時,体位・術野の変更時,術中アクシデントにより業務が煩雑となった時,看護師の交代時,体腔閉鎖時,皮膚閉鎖時を目安に,随時カウントが行われている.また最近では,ガーゼが残存する可能性のある手術で使用するガーゼは,すべてX線感応ガーゼとし,閉創前にX線撮影を行い残存の有無を確認している.獣医療においても,“異物の残置”は本件のように民事責任を問われ,事故原因となった可能性が存在すれば責任を負うことになる.「ガーゼ・器械のカウント」による安全確保は,獣医療にも容易に応用できよう.次の手術からは是非,獣医師と手術スタッフがチームとなって実践されることを期待する.
 民法において,債務不履行や不法行為により動物が侵害された場合,所有権(財産権)の侵害として,加害者から飼い主に対して当該動物の財産的損害の賠償が行われることになる【21】.小動物診療訴訟では,いわゆるペットとして飼養されてきた動物である場合,治療費に加え,財産的損害とは別に,あるいは財産的損害ではなく,慰謝料が請求されることが多い.実際,愛犬の糖尿病治療裁判(平成16年5月10日地裁判決)【8】以降,飼い主1人当たり30万円程度の慰謝料が認められている.本件の対象動物は競走馬であり,慰謝料ではなく財産的価値が認められた.すなわち,「動産の価値はその交換価値により把握すべき」であり,賞金獲得額や種付料を生む価値があるとされたのである.一方獣医師側は,「喘鳴症で2回の喉頭形成術を受けている馬が,ばんえい競馬に出走し,(中略)術前と同程度の賞金を獲得できる蓋然性は低く,引退時の価格も低廉になる」という主張をしていた.これは人の医療過誤訴訟における,患者の身体的素因の斟酌に相当し,損害賠償額の減額要因となりうる【19】と考えられる.裁判所は,本件馬の通算勝率が3割であることを踏まえつつ,加齢による走力低下を考慮して逸失利益を2割減額したが,喘鳴症は考慮されなかったようである.
 本件判決で認められた損害賠償額は2,000万円超であり,獣医療訴訟の中では群を抜いて高い【11】.これまでに公表されている獣医療訴訟はいずれも小動物診療に関するものであり,1件の損害賠償額としては,犬の卵巣子宮全摘出・下顎骨切除・乳腺腫瘍切除の同時手術に関する裁判(平成19年9月27日東京高裁判決)【3】で認められた140万余円が最高である(平成20年10月現在).獣医師賠償責任保険では,当時,一事故補償限度額が100〜1,000万円と設定されており,競走馬の場合は500万円までとされていた.しかし本件判決後,平成19年4月1日より改定され,競走馬の限度額は2,000万円まで(その他は3,000万円まで)となっている.獣医療訴訟の増加,損害賠償額の高額化に伴い,保険も時勢に対応した見直しが必要であろう.



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