会報タイトル画像


解説・報告

判例に学ぶ〜ばん馬の喉頭形成手術後の死亡に対し
損害賠償金2,051万余円が認定された事例〜

岩上悦子 勝又純俊 押田茂實(日本大学医学部社会医学系法医学分野)


岩上悦子
 これまで「判例に学ぶ」では,小動物臨床における獣医療訴訟について紹介してきた【8, 9, 10】.今回は,産業動物臨床における獣医療訴訟の高裁判決を紹介する.
 「ばんえい競馬」の競走馬(ばん馬)が喉頭形成術を受けた際,獣医師が馬の体内に針等を残置するなどしたため,馬を安楽死させざるを得なくなったとして,馬主が獣医師らに対し損害賠償等を求めた訴訟である.一審の地方裁判所の判決(平成18年4月17日)では,馬主側の請求(3,518万余円)のうち3分の1程度(1,164万余円)が認容された(表1)【5】.そこで獣医師側が馬主の請求の全部棄却を求めて控訴し,馬主も請求を減縮(2,247万余円)して損害の増額認容を求め附帯控訴した.高等裁判所判決(平成19年3月9日)では,獣医師側に2,051万余円の支払が命じられた.そして最高裁判所決定(平成19年9月20日)でも高裁判決が維持されたので,ここでは高裁判決を紹介する【4】.

表1 裁判経過


 1 事案の概要と診療経過
 高裁の判決によると,診療経過の概略は以下のとおりである(表2).原告は,北海道市営競馬組合が行う地方競馬「ばんえい競馬」の競走馬(ばん馬)である本件馬の飼い主(馬主)であり,X年4月10日ころ本件馬を500万円で購入した(当時2歳の牡馬).被告は,獣医師Aが当時診療部長を勤めていたE病院を運営する農業協同組合である.
 本件馬は,同年6月16日,大学病院において「喘鳴症(喉頭片麻痺)」と診断された.喘鳴症とは,馬の喉頭口が狭まり,深い呼吸をする際に特異な喉頭狭窄音(喘鳴音)を発する疾病である.これによって呼吸が十分できない場合には,競走能力に影響が生じる.そこで同日,本件馬は大学病院において喉頭形成術を受けた.
 その後,本件馬は同年9月16日から2年後の2月18日までの間,14回のレースに出走し,5回優勝した.
 その年の4月ころ,喘鳴症が再発した.そこで本件馬を診察した獣医師Aは,同年4月12日に喉頭形成術(本件手術)を行った.手術は,術中の出血が多く止血に時間がかかるなどし,一般的な手術の所要時間よりも長くかかった(手術時間約1時間40分).なお,本件喉頭形成術に使用された針はエチボンド(針付き非吸収性ポリエステル糸)であり,筋膜の縫合にはバイクリル(針付き吸収性糸)を使用し,皮下組織も縫合した.そして,皮膚はナイロン糸(非吸収性)を用いて縫合した.獣医師Aは本件手術終了後,馬主に対し術後措置について特段の指示を行わず,抗生物質を渡すこともなかった.
 手術後数日の間,本件馬は獣医師Bの診察を受け,抗生物質を投与された.しかし,4月下旬または5月上旬ころから術創部が腫れたため,獣医師Cは5月から7月ころに切開して排膿した.さらに8月末には獣医師Bが診察し抗生物質を投与したが,術創部の膿瘍,排膿が継続的に認められたため,膿瘍を排出する外科処置等が施された.
 同年9月4日,本件馬は大学病院において獣医師Dの診察を受けた.喉頭部の内視鏡検査の結果,喉頭片麻痺の症状は最重度(グレード4)であり,披裂軟骨の変形,喉頭部の腫脹が認められた.当該腫脹は,膿瘍形成が原因と疑われた.また,本件手術の術創から排膿があり,当該排膿部に続く瘻管内に遊離した状態の縫合糸が存在していたため,鉗子で掴み,引っ張って鋏で切断し,約20cmを摘出した.この縫合糸は,本件喉頭形成術のプロテーゼとして利用されたエチボンドと同一種類のものであった.
 その後,本件馬は診療所において療養していたが,10月4日には再び喘鳴音が重度となり,大学病院において獣医師Dの診察を受けた.本件馬は,呼吸時に狭窄音が発する状態であり,内視鏡検査において喉頭片麻痺がグレード4,左側の披裂軟骨が変形し,右側に変位して,気道が著しく狭窄している状態であった.X線撮影にて,披裂軟骨の筋突起部に縫合針様の異物が認められた.また,喉の術創部付近の瘻管に造影剤を注入してX線撮影をしたところ,気管の背側及び食道部に広汎な瘻管が形成されていた.そこで獣医師Dは,本件馬に全身麻酔をかけ,瘻管などの化膿している組織を摘出し,併せて,瘻管内から約8cmの縫合糸を摘出した.この縫合糸もまたエチボンドと同一種類のものであった.その後,本件馬は麻酔から覚醒したものの,呼吸困難が重度であったため,気管を切開し,気道管を挿入して気道を確保する措置がとられた.
 10月6日,本件馬は入院していた大学病院を退院し,排膿が治るまで気道管を装着したままとし,馬主が経過観察することとなった.しかし,本件馬の呼吸時に発生する狭窄音は改善が認められず,同月23日に大学病院を受診した.内視鏡検査の結果,症状としてグレード4の喘鳴症であり,左側喉頭部周囲全域に及ぶ結合組織の肥厚(増生)が原因で,外科措置が適用できない,披裂軟骨小角突起の変形による気道閉塞であると診断された.上記結合組織の肥厚は,当該部位の炎症が原因で生じたものであった.本件馬は呼吸困難症状が著しいため,同日,安楽死された(死亡時4歳).
 同年10月24日,獣医師Dは大学において本件馬を解剖した.左側喉頭部周囲全域(左披裂軟骨,左甲状軟骨及び輪状軟骨部)に結合性組織が増生しており,左披裂軟骨の右方への変位及び声門狭窄が生じ,左甲状軟骨内に48mmの縫合針(エチボンドの針)が一本あり,その全長をすべて軟骨内に埋没した状態で突き刺さっていた.本件針は,左甲状軟骨から容易に抜去できず,獣医師Dは左甲状軟骨を骨ノミで割り,取り出した.本件針に接触する左甲状軟骨の組織全面に,組織の壊死や化膿はなく,本件針に腐食はなかった.本件針は折れたものではなく,針全体が摘出され,本件針に糸はついていなかった.このとき,縫合糸が2cm程度摘出された.この縫合糸もまた,エチボンドと同一種類のものであった.
 そこで馬主は,獣医師Aが本件手術の際,馬の喉頭部腹側左甲状軟骨内に縫合針および不要な縫合糸を残置するなどしたため,本件馬は安楽死を余儀なくされたとして,獣医師Aが当時勤めていたF病院を運営する農業協同組合に損害賠償金の支払を求めた.
 一審では,獣医師Aが縫合針を喉頭部の左甲状軟骨内に残置したことは過失と認定された.また,喉頭形成術においてプロテーゼとして残置すべき縫合糸は通常10cm程度であると認定され,本件手術で残置された縫合糸(約20cmまたは10cm)は通常の限度を超えており過失とされた.そして血行感染を誘発し,この縫合糸そのものが細菌感染の温床となって瘻管を形成させたと判断されたのである.

表2 診療経過一覧




次へ