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3 畜産新技術の開発・普及の取り組みと海外経験 種畜牧場では,パラグアイの経験から,将来,海外協力分野の仕事をすることを目標にその後も繁殖関係の技術習得に専念した.しかし,人事の都合もあり,1985年に農水省畜産局の種畜牧場を管理,監督する部局に異動した.異動となった丁度その時期に種畜牧場業務に対する行政監察が入っていて,仕事では,行政監察庁の担当者に対して種畜牧場が取り組んでいる各種事業を分かり易く説明することが求められた.その過程で,自分がそれまで受精卵移植や繁殖関連の技術しか目を向けておらず,それ以外のことは殆ど何も知らなかったことを痛感した.この時,付け焼刃的ではあったが,乳牛,肉牛の育種事業の仕組みや飼料・種苗生産についても一通り勉強した.この時の経験や得た知識は,その後,海外技術協力関係で関わった酪農,肉牛生産振興に関する技術協力案件を検討する際に大変役に立った. 種畜牧場は,この時の行政監察の指摘を踏まえて,いくつかの牧場を統合整理し,家畜改良センター本部と各牧場からなる組織に再編整備された.筆者は,1988年に家畜改良センター本部(前福島種畜牧場)に異動になり,受精卵移植等の新技術の開発実用化を担当する技術第1課を任されることになった. 管理職ではあったが小さな課であったので,上司の理解もあって再び受精卵移植やその当時新しく技術開発が進み注目され出した体外受精技術の実用化のための調査研究に没頭することができたのは幸いであった.一方,管理職としては自分の課の取り組むべき調査研究の課題を整理し,方向性を示すことも重要な職務であった.それまでは,自分の興味のある研究テーマだけで,技術全体を見ようとはしなかったが,課として取り組むいくつかの研究テーマが技術全体の中でどのような位置付けになるのか,また,成果としてどのようなインパクトが期待されるのか,優先順位はどうすべきかを考えるようになった.それぞれの抱える技術の現状の問題点を整理して,限られた予算の中で何が優先されるべきかを考えることは,海外技術協力案件の活動分野を特定することとも共通している. また,国の補助事業を使った都道府県も巻き込んだ共同試験の企画も任されたので,凍結保存技術や過排卵処理技術等,都道府県の機関と連携した共同研究を実施することとなり,これまでできなかった大規模な調査試験の設計にも関与し,様々な成果も得られた. 家畜改良センターはいわゆる試験研究機関ではないが,再編整備後は調査研究を育種改良と並ぶ重要な業務と位置づけるようになったので,特に実験牛を多数使う繁殖関係の試験研究を行う環境としては恵まれていた.そして,1995年にそれまでの仕事の成果をとりまとめて,家畜改良センターに在籍したまま東北大学から学位を取得した.行政職で学位を取得するのは大変珍しいことであったが,これも,その当時の上司や関係課の職員の理解と協力があって初めて成し得たことと感謝している.
また,この時期には日本のODA予算が急増した時期でもあり,JICAが実施する集団コースが拡充され,家畜改良センターでも人工授精コースに加えて,受精卵移植,体外受精技術のコースも実施されるようになった.特に1989年新設された「体外受精技術コース」はその立ち上げから運営まで全て任されたので,テキストの作成から講義,実習等まで,大変忙しかったが,海外研修生との付き合いは今まで以上に親密になった.アフターファイブには,海外研修棟の調理場で各国からの研修生達にお国自慢の一品料理を作ってもらい,家畜改良センターの関係職員と一緒に「世界のグルメパーティー」を開催するなどして好評であった. 一方,1990年以降の国内の受精卵移植技術の普及状況をみると技術的な改善は進んでいるものの,補助事業の拡大で未熟な技術者の関与が増え,また,移植奨励金目的でその産子の利用計画が不明確な農家の安易な参入を招き,受胎率が低迷する時期となっていた. このような中で,1995年に農水省畜産局の新技術の補助事業を担当する部局に異動となり,受精卵移植を始めとする畜産新技術の開発やその普及を担当することとなった.まず,手を付けなくてはならない課題は何と云っても受精卵移植の受胎率の改善であった.それまでは移植頭数を増やすことが目標となっていて,生産された産子の利用目的が不明確なままの取り組みがなされているのが受胎率の低迷の最大の元凶であることは間違いないと判断した.そこで,安易な移植を助長する移植奨励金等の補助事業はできるだけ抑制し,特に体外受精卵を使って肉牛生産を行う場合には,その産子の利用目的を明確にした移植を求める仕組みを補助事業に導入した.この取り組みは,それまでのような農家の自由な参入を妨げ,移植頭数が減少するなどの影響もありいろいろな議論もあったが,最終的にはその時の事業の見直しがその後の受胎率の改善に繋がったと自負している.
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4 中南米における畜産関連プロジェクト形成と評価に関与 その後,1997年に行政部局から再度,家畜改良センター本部に戻ったが,今度のポストは技術関係全体の課を統括するポストであったので自ら実験できるような立場ではなかった.その当時,畜産関係では,受精卵移植関連技術としてのクローン技術や遺伝子育種などの新しい技術が注目され,家畜改良センターとしてもこれらの新しい技術の開発実用化に取り組むこととなり,その内容を予算要求や来訪者等に分かり易く説明することが度々求められた.そのための資料作りを通して,素人に対して技術を分かりやすく説明することが如何に大変であるのかを痛感した.難しい言葉を使わず,平易な説明が求められる点は,海外技術協力で新規案件を検討する際に,畜産に詳しくない担当者に畜産案件の有用性を理解してもらうのと共通であり,資料作りのイロハを含めてその経験は今も十分役に立っていると思う. また,その家畜改良センターで管理部門に席を置きつつ,中南米(パナマ,チリ,パラグアイ等)の畜産技術協力案件の形成や事前調査に携わる機会があった.それまでの畜産関係のプロジェクトのスキームは,人工授精センターや家畜疾病診断ラボなどを拠点としてその職員を対象に技術移転を行い,その成果である種畜(凍結精液を含む)やワクチン,診断薬が野外で活用されることを期待するものであった.しかし,その頃からJICAの技術協力に対する考え方も変化し,現場における活動を重視し,直接農民の収益改善や地域の貧困対策に裨益する技術協力が求められるようになっていた.中南米の畜産関連プロジェクトの案件形成に当たっては,上記のような考え方を背景として,今後の畜産分野の技術協力のあり方を模索した. 結論としては,日本の得意とする技術分野を考慮すれば「拠点型技術協力」は今後も有用であるが,それに留まるのではなく,飼養管理技術や飼料生産技術などについては,地域の指導者や中核農家を対象とする「TOT(Training of Trainers)」の実施,さらには,TOT参加者が地域に帰って実施する「デモ研修」などをスキームに加えることが重要であると整理した. 一方,これらの案件形成の際に気が付いたのは,単なる技術の移転だけでは限界があり,その技術を巡る制度や仕組みの改善がなければ,プロジェクト終了後折角移転した技術が活用されず,霧散してしまう点である.これまでの畜産技術協力案件では,技術移転が中心でそれを巡る制度や仕組みに関して十分指導してこなかったのが気になった.例えば,酪農振興のために人工授精技術は必要であるが,技術そのものを移転するだけでは不十分で,授精師の免許制度や人工授精によって生産される子牛の登録制度等の確立が重要であると考えた.中南米のプロジェクトの検討では,このような技術を巡る制度,仕組みの改善に対する助言指導も活動の中に含めることが必要であると主張した. |
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5 長期派遣専門家として本格的に技術協力の世界へ その後,2001年に再び本省に戻ったが,これまでの経験を海外協力の現場で生かしたいという希望は捨て切れなかった.2003年9月,漸く長年の希望が叶い初めて「長期派遣専門家」として,JICAが2001年から実施している「ベトナム牛人工授精改善プロジェクト」のチーフアドバイザーとして派遣された. 幸いにしてプロジェクトは優秀な専門家とカウンターパートのメンバーに恵まれたので,[1]人工授精師の再研修による野外技術者の技術レベルの向上,[2]人工授精記録の収集システムの開発とそれに基づく基礎データの収集体制の確立,[3]ベトナムで唯一の凍結精液生産センターであるモンカダAIセンターの凍結精液生産技術の見直しによる,品質の改善,[4]モンカダAIセンターの種雄牛の飼養管理技術の改善による精液生産量の向上,など多大な成果が得られた. このプロジェクトの終了時には東南アジアの国々の酪農を巡る制度や仕組み等に係る情報交換を目的とする「東南アジア酪農ワークショップ」を企画し開催した.これは中南米での畜産案件形成に関わった際に,単なる技術の移転だけでは不十分で,その技術を巡る制度や仕組み作りに日本としても積極的にコミットする必要性を痛感したからである.このワークショップでは,東南アジアの酪農先進国であるタイ,インドネシアにおける酪農振興に係る制度や対策等を分析し,その結果を踏まえてベトナムの取るべき酪農振興体制整備について議論を行った. このワークショップで,3つの国の酪農をめぐる様々な制度や仕組みが比較されたことにより,ベトナムでは,特に[1]酪農協の組織機能強化,[2]生産者,加工業者の参画したミルクマーケッティングボードの設立,[3]学校給食牛乳(学乳)制度の導入による国内生産乳保護対策の実施,等が緊急の課題となることが明らかとなった.2005年10月にプロジェクトは終了したが,このワークショップの議論を踏まえて,酪農振興に焦点を絞った新しいプロジェクトが2006年4月からスタートしている.
2005年10月にベトナムのプロジェクト終了後一端日本に戻ったが,同年11月に今度は「畜産開発政策アドバイザー」としてインドネシア共和国の農業省畜産総局に派遣された.このアドバイザーポストは,畜産局衛生課長を退職された後JICAの国際専門員として活躍された故緒方宗雄氏(2007年3月逝去)が初代を勤めたポストであり,筆者はその6代目のアドバイザーであった.畜産開発政策アドバイザーは,名称の通り,インドネシアの畜産全般の施策や技術協力案件の要請に際してインドネシア側にアドバイスを行う立場にある. 赴任した直後から,鳥インフルエンザが多発したので,まずは鳥インフルエンザの対策の日本側の支援を整理することが重要な業務となった.筆者は,入省以来,家畜生産分野しか関わってこなかったので,家畜衛生分野は勿論のこと,鳥インフルエンザについては全くの素人であり当初は戸惑った.しかし,本省の動物衛生課の担当者からいろいろな情報を提供してもらい,また在インドネシア日本大使館の担当者と協力して情報収集を行い,多くのドナーが既に支援を表明する中,後発の日本としてどの分野がその特色を生かせることができるかを整理し,支援プログラムを取り纏めた.そして,2007年暮れに鳥インフルエンザ関連で技術協力と無償資金協力の2つの案件をスタートさせることができた. 一方,インドネシアでは,従来から育種改良や酪農,肉牛進行に関して日本が支援をしてきており,この分野においてもインドネシア農業省,大使館等と議論して,新しい案件の形成に努めきている.以前,中南米の案件形成時に整理した考え方は,インドネシアでも十分活用できると考えた.肉牛及び酪農に係る公的機関を拠点として,[1]その職員に対する技術移転を行い,[2]その成果を活用してTOT,[3]さらにはモデル農家等によるデモ研修,の3つの活動をプロジェクトの主要活動とする案件が,肉牛及び酪農分野でも採択され,それぞれ2006年と2008年にスタートさせることに成功した. |