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総 説


 8 判例に学ぶ〜獣医療訴訟
 わが国においては,人の医療事故に関しても同様であるが,獣医療事故に関する全国規模の集計は存在しない.人の医療事故訴訟に関しては,民事訴訟について最高裁判所が毎年公表している「医事関係訴訟事件」に関する統計がある.この統計によると,新たに訴訟が提起された医事関係訴訟事件の新受件数は2004(平成16)年まで年々増加し1,000件を超えていたが,2007(平成19)年には944件であり,判決が確定あるいは和解となって裁判が終了した既済件数は1,027件であった.その終局(裁判の結末)は,判決まで至ったものが35.5%(365件),和解が52.2%(536件),取下が4.6%(47件)であった.診療科別に見ると,例年,内科,外科,産婦人科,整形外科が多かった.
 また医療事故では類型的な事故が繰り返し起こっているとの指摘もある.古い資料<19>ではあるが,1990年代に報道された事故だけを見ても,血液型不適合輸血の事故5件,経腸栄養剤の静脈内誤投与事故3件,ガーゼ等の体内遺残事故4件などが全国で発生していた.これは,すでに先行して同様の重大事故が発生しているにもかかわらず,それらが全国的には周知されないまま,十分に検討されることなく,各医療機関の教訓になっていなかったからであり,十分な防止策が実施されてこなかったからであると指摘されている.
 そこで筆者らは,公表されている人の医療事故訴訟の判決を収集し,一覧化することによって,その内容を検討してきた.また同様の手法を用いて,獣医療訴訟についても判決を収集し,一覧化している.そのうち,とくに最近審理が行われ,一般に公表されている裁判事例については,事例の概要を獣医師に紹介している<20, 21>.判例の収集にはインターネットを利用し,裁判所ウェブサイト(http://www.courts.go.jp/)及びTKC法律情報データベース(有料サイトhttps://www.tkclex.ne.jp/)等にアクセスし,「獣医」,「動物orペット」及び「病院or動物病院」をキーワードに,獣医療訴訟判決を抽出している.さらに,判例誌「判例時報」及び「判例タイムズ」を併せて参照し事件内容について検討したところ,明治から平成20年3月までの収録判例から,民事訴訟14件(表1),刑事訴訟2件(表2)の計16件が抽出された.民事訴訟の内容は,治療6件,手術6件,診療2件であり,獣医療側敗訴は14件中11件(78.6%)であった.刑事訴訟は明治43年と昭和4年の事件であり,いずれもかなり古い判例であった.なお,オンラインの判例データベースや判例誌(判例時報,判例タイムズ等)には,全ての裁判が収録されているわけではなく,これらの判決は実際にあった訴訟の一部である.
 またこれとは別に,新聞において報道されている獣医療訴訟を収集したところ,判例データベースに掲載されていない民事訴訟8件が抽出された(表3).その内訳は,治療2件,手術2件,診断2件,診療・麻酔が各1件であり,和解を含め全件において獣医療側が損害賠償等の支払いを命じられていた.前述の最高裁判所の資料には,人の医療事故訴訟とは異なり,獣医療に関する民事訴訟の統計は公表されていない.しかし,最近公表された民事判決(表1)や報道(表3)を見る限り,獣医療関係訴訟の数は決して少なくなく,とくに平成10年以降には増加傾向にある.これらの判例を知り,獣医療におけるどのような過程において事故が発生する可能性があるのか,どのような獣医療行為が訴訟へと発展してしまうのか,裁判ではどのように事実認定がされるのか,獣医師には法的に何が求められており,何が過失とされるのかなどを検討することは,同種のトラブルの防止に有益となろう.
 最高裁判所の資料によれば,平成19年度の医事関係訴訟事件の平均審理期間は23.6月であり,地方裁判所における民事訴訟第一審の認容率は37.8%であった(通常の訴訟では83.5%であった).つまり,医事関係訴訟は裁判に時間がかかる上,患者側が勝訴する割合は判決まで至ったうちの3分の1程度である.このように長期化するのは,医療紛争は専門知識に基づく判断が必要な複雑な事件である上,専門家である鑑定人を見つけるのが一般的に困難であるからと考えられている.そこで平成13年に,最高裁判所は「医事関係訴訟委員会」を設置した.この委員会は,鑑定人候補者を早期に選定したり,各界の有識者に医療紛争事件について様々な意見を述べてもらったりすること等を目的としており,医学界及び法曹界の有識者と,一般の有識者から構成されている.
 一方,獣医療関係訴訟は前述の通り,判例として公表されている事件だけを見ると,飼い主側が勝訴する割合はおよそ4分の3と高い.また各事件の判決全文を検討すると,判断の基準となる事件当時の獣医療水準の認定が適正であったのか,病理解剖は適正に行われたのか,鑑定は適正であったのかと,裁判というものに疑問を持つことも少なからずある<22>.これは,獣医師が裁判に不慣れであり,獣医療事故に精通した弁護士に応訴を依頼することが容易でないことも一因と考えられる.また訴訟形態が専門化してきているので,弁護士にも最新の訴訟知識が要請される.それ故,専門職である獣医師と弁護士は,相互にその知識を交流し,獣医療訴訟に対応できる体制を幾重にも作るべきである<15>.さらに,裁判のなかでのこのような問題を解決するためには,獣医事関係訴訟についても,裁判所の中で専門家の適切な協力が得られるよう,医事関係訴訟委員会と同様の「獣医事関係訴訟委員会」の設立が必要であろう.


 9 お わ り に
 日本獣医師会が制定した「小動物医療の指針」<16>にもある通り,小動物医療の目的は,単に小動物の診療にとどまらず,小動物の健康管理,飼育者に対する小動物の保健衛生指導,さらに人と動物の共通感染症の予防等も含まれる.したがって,小動物医療は,動物の健康だけではなく,人の健康,公衆衛生にも密接にかかわる社会的,公共的な性格を有する.このように小動物の医療は,人の医療と技術的面では同様であるものの,その目的や社会的要求,あるいは動物に対する考え方には大きな違いがある.人に対する医療とインフォームド・コンセントは,基本的には医師と患者の間で成立するのに対し,動物の医療は,動物と動物の所有者(飼い主)そして獣医師の三者で成立する.また,人の医療では救命が最優先されるが,動物の医療では必ずしも救命が優先されるとは限らず,獣医師は,飼い主の意識と希望を十分に踏まえたうえでインフォームド・コンセントによる医療を提供することが要求される.小動物等のペットの生命についての意識は,その飼い主によって大きく異なり,救命を最優先する飼い主もいれば,ペット動物の苦痛を思いやり,安楽死を選択する飼い主もいる.
 一方,「産業動物医療の指針」<16>によれば,産業動物医療の目的は,単に産業動物の診療にとどまらず,畜産経営の効率化と生産性の向上等,動物の所有者又は管理者の要請に応えることにある.また,家畜の伝染病のみならず,人と動物の共通感染症の予防,まん延防止等も含まれる.さらに,医薬品等の残留防止,薬剤耐性菌の発現防止等に十分留意するのみならず,畜水産食品を介した食中毒の発生防止等にも配慮しなければならない.そして,畜産物が食品以外の幅広い用途に供されることや畜産公害の防止等,公衆衛生,環境衛生にも配慮して所有者等を指導する必要がある.すなわち,獣医師は産業動物医療の提供のみではなく,適切な経営指導にも努めるべきであり,その結果として所有者等に利益をもたらし,経営の安定が図られることにより,技術者である獣医師と経営者である所有者等の信頼関係を確立することができる.
 このように,人の医療と獣医療は必ずしもその目的や要求が同じではない.しかし,医療事故の防止,医療の質を保証・向上させるためのリスクマネジメントはどちらにも必要である.人の医療におけるリスクマネジメントの考え方や手法の利点を取り入れて,小動物医療・産業動物医療のそれぞれに適した「獣医療におけるリスクマネジメント」が検討されることを期待したい.





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