会報タイトル画像


総 説

−獣医療現場における危機管理のあり方(II)−
判例に学ぶ〜今,なぜリスクマネジメントなのか〜

岩上悦子,勝又純俊,押田茂實 (日本大学医学部社会医学系法医学分野)

岩上悦子
岩上悦子
1 は じ め に
 1999年に発生した横浜市立大学病院での患者取り違え手術事件と,都立広尾病院での消毒薬誤注射事件以降,人の医療における医療事故や医療訴訟が広く報道されるようになった.その後,医療現場では医療の質の向上と安全確保のために,組織的,系統的な医療事故防止の対策(リスクマネジメント)が行われるようになってきている.一方,医師の過労死が起きたり,病院から医師が集団辞職したりする事例が散見するようになり,地域や診療科によっては,いわゆる“医療崩壊”という事態も起こり,社会問題化している<1>.
 最近では獣医療においても,獣医療事故や獣医療訴訟が報道されるようになってきた.近年の動向を見ると,人の医療と同様に獣医療訴訟の増加,損害賠償の高額化が加速し,“獣医療崩壊”に至る危惧もある.このような状況下では,獣医療にも組織的なリスクマネジメントが必要な時期がきているといえよう.
 本稿では,人の医療におけるリスクマネジメントと対比しつつ,獣医療訴訟の全体像を紹介するとともに,獣医療におけるリスクマネジメントの方向性やあり方について検討したい.

 2 獣医療事故と獣医療裁判
 人の医療において,診療過程で生じる人身事故を「医療事故」といい,そのうち過失によって生じた医療事故のみを「医療過誤」という.医療は,場合によっては重大な危険を内包している専門的な行為であり,医療事故はあらゆる場面において発生する可能性がある.医療事故が発生した場合に,患者あるいは家族や遺族が,医療関係者にクレームをつけたり,損害賠償を求めたりして,「医療紛争(医事紛争)」になることがある.また,医療事故が発生していなくても,患者あるいは家族や遺族との間で,認識の食い違い,感情のもつれなどがあると,医療紛争に至る場合もある.そして,医療紛争になり,患者側が裁判を提起すると,「医療裁判」になる<2>.
 獣医療においても同様に定義できよう.すなわち,動物の診療過程で生じるあらゆる事故を「獣医療事故」,そのうち過失によって生じた獣医療事故のみを「獣医療過誤」という.獣医療事故が発生していてもいなくても,動物の所有者(飼い主)や家族が医療関係者にクレームをつけたり,損害賠償を求めたりすると「獣医療紛争」となり,裁判を提起すると「獣医療裁判」となる.
 人の医療事故の総数は,全件の届出システムが無いため不明である.同様に,獣医療事故や獣医療紛争も届出システムがないためその総数は不明である.(社)日本獣医師会と(株)損害保険ジャパンの獣医師賠償責任保険中央審議会では,被保険者の保険事故情報を収集し,検討しているが,[1]守秘義務の遵守,[2]事故当事者等の権利侵害防止の観点から,具体的な内容は開示していない.獣医師会会員向けの事故予防に資する目的で,筆者らが2004年に開示していただいた統計情報によると,1998年から2002年度までの5年間の事故態様別保険金支払件数(全237件)は,治療・処置17%,手術16%,麻酔16%,術後管理8%,投薬8%,誤診8%,保定8%,逃亡事故6%,注射5%,入院・一般管理5%,施設3%であった(平成16年4月6日回答).

 3 医療事故の真相究明
 労災事故では,「ハインリッヒの法則」が有名である<3>.これは,1件の重大事故の背後には,死亡には至らなかった軽微な事故が29件あり,その背景には事故にまでは至らないがあわやその事故に遭いそうになったケース(ニアミス)が300件存在するという報告である.これが事故発生に関する1:29:300の法則であり,医療事故に適用すると,医療事故死亡例が1例報告されたということは,全国に300例のニアミスが発生しているということになる<2>.
 獣医療においても,同様に考えてよいのではないだろうか.すなわち,1件の獣医療事故死亡例の背後には,29件の軽微な獣医療事故があり,その背景には約300件の事故には至らなかったニアミスが存在するということになろう.
 医療事故の予防対策として第一に重要なことは,医療の全てのプロセスにおいて,事故発生の可能性があることに注目し,ニアミス例が発生した時に予防対策を見直すこととされている.現在,人の医療では有傷害の事故が起きて初めて再発の防止を検討するのではなく,その背景にある何十倍ものニアミス事故を分析し,将来の同種の事故を防ぐための組織的な対応をする,いわゆる「リスクマネジメント」が始められている<4>.

 4 リスクマネジメントとは何か
 本来「リスクマネジメント(risk management)」は,組織を損失から守ることを目的とする組織経営の手法であり,企業防衛のための保険管理から発展してきたといわれている.リスクマネジメントでは意思決定手順として,「リスクの把握(risk identification)」,「評価・分析(risk evaluation/analysis)」,「対応方法の決定(risk treatment)」,「再評価(risk re-evaluation)」というプロセスをたどるとされている.このプロセスはいずれも重要であるが,なかでも重要なのは「リスクの把握」であり,「何をリスクだと認識するのか」という問いかけが,具体的な取り組みのスタートとなる.現在,人の医療の現場で進んでいる,事故や事故になる手前の「ひやりとした,はっとした(ヒヤリ・ハット)」事例を収集する取り組みは,まさにこのプロセスの「リスクの把握」である<5, 6>.
 このリスクマネジメントを,1970年代半ばにアメリカの病院が初めて医療の現場に導入した.当時アメリカは,医療訴訟の増加,医療側敗訴の増加,賠償金高額化により,医療過誤保険の危機を迎えていた.こうした状況のもとで,病院が1つの自衛措置としてリスクマネジメントを導入したのが初めてである.つまり,当初は保険料高騰による財務的な損失の防止や訴訟防止・訴訟対策としてのリスクマネジメントであった.しかし,1980年代半ば以降,より本質の問題への対策の重要性に気づき,医療事故の防止,さらに医療の質を保証・向上させる活動へと連動するようになった<4>.

 5 日本の医療におけるリスクマネジメント
 日本においては,1999年1月に横浜市立大学医学部附属病院における医療事故(心臓手術予定患者と肺手術予定患者を取り違えて手術)が,同年2月には都立広尾病院における医療事故(静脈に消毒薬ヒビテン液を誤注射して死亡)が,大きく報道された.その後,両事故の調査報告書が公表され,医療事故に対する予防策が広く検討されるようになった.
 厚生労働省(ホームページhttp://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/index.html)では,医療安全推進のための企画・立案等を行う目的で,2001(平成13)年4月,医政局総務課に「医療安全推進室」を設置した.同年10月からは医療安全対策ネットワーク整備事業(ヒヤリ・ハット事例収集等事業)が開始され,国立病院・療養所や特定機能病院(医学部附属大学病院等,厚生労働大臣の承認を受けた,高度の医療を提供し,高度の医療技術の開発及び評価を行い,高度の医療に関する研修を行う病院)の参加施設からヒヤリ・ハット事例を収集し,その分析結果を広く医療機関や国民に提供するようになった.
 これに先立ち,2000(平成12)年には医療法施行規則が改正され,特定機能病院においては安全管理体制の充実を図るため,[1]安全管理のための指針の整備,[2]事故等の院内報告制度の整備,[3]委員会の開催,[4]職員研修の開催の4つの取り組みを特定機能病院の承認要件,管理者の義務及び業務報告事項として明確に位置付けられた(平成12年1月公布,4月施行).また2002(平成14)年10月には,特定機能病院以外の病院と有床診療所にも安全管理体制の強化が義務付けられた.さらに2003(平成15)年4月からは,特定機能病院には,[1]専任の安全管理者の配置,[2]安全に関する管理を行う部門の設置,[3]医療機関内に患者からの相談に応じる体制の確保が義務付けられた<7>.
 その後,2004(平成16)年4月にはヒヤリ・ハット事例収集が全国展開され,2004(平成16)年9月に公布された医療法施行規則の一部を改正する省令に基づき,同年10月から財団法人日本医療評価機構において医療事故事例等の収集が開始された.本事業で収集した情報は,分析,検討され,報告書,年報及び医療安全情報として取りまとめられ,医療機関・国民・関連団体・行政機関等に対し広く提供し公表されている.
 さらに,2007(平成19)年4月には医療法施行規則が改正され,[1]医療安全管理の義務化,[2]都道府県への医療情報の提供と医療機関での閲覧の義務化,[3]広告規制の緩和,[4]病院が備えるべき診療に関する諸記録への看護記録の追加,[5]入院時の文書による説明の義務化などが実施されている.

 6 獣医療におけるリスクマネジメント
  獣医療におけるリスクマネジメントは,食の安全確保<8>,動物用医薬品の安全性<9>,共通感染症対策<10>などの農林水産分野や公衆衛生分野では,すでに始められている.
 例えば,食の安全対策としては食品衛生法(1947年制定,1995年改正)により総合衛生管理製造過程が食品製造の承認制度として導入され,HACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point)システムが組み込まれた.HACCPとは,食の安全性確保のための食品の衛生管理システムである.基本原則は,[1]危害分析(HA:Hazard Analysis)の実施,[2]重要管理点(CCP:Critical Control Point)の決定,[3]管理基準(CL:Critical Limit)の設定,[4]モニタリングシステムの設定,[5]改善措置の設定,[6]検証,[7]記録の維持管理などで構成されている<11>.
 1996年に腸管出血性大腸菌O-157による集団食中毒事件以降,国民の食品衛生に対する関心が高まった.また,2001年9月には国内初のBSE(牛海綿状脳症)の発生による食品の安全性に対する国民の不安の高まりを踏まえ,その信頼を取り戻すため,農林水産大臣と厚生労働大臣により「BSE問題に関する調査検討委員会」が立ち上げられた.この検討委員会が2002年4月2日にまとめた報告書において,食品の安全性確保のためには,国民の健康の保護を重視し,「リスクアナリシス」手法の導入を始めとした食品の安全性に関する社会システムを確立すべきことが提唱された.その後,食品の安全性の確保についての基本となる法律「食品安全基本法」が2003年に施行され,国民の健康の保護が最も重要であることを基本理念として定めるとともに,「リスクアナリシス」手法を導入し,厚生労働省や農林水産省等に対し,食品の安全性に関する施策等について勧告等を行う権限を持つ「食品安全委員会」という新しい組織が設置された<12>.
 人と動物の共通感染症についてもリスクマネジメントが進められている.1999年の「感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)」の施行にあたっては,初めて人の感染症に共通感染症が取り上げられ,サルのエボラ出血熱,マールブルグ病及び狂犬病予防法の対象動物の拡大により法定検疫が実施されるようになった.こうした共通感染症は,動物から直接伝播するだけでなく,媒介昆虫類や汚染環境等を介して間接的に人に伝播することから,予防対策を講ずる上で検討すべき事項は非常に多い.したがって,そのリスクの実態の解明や発生予測を的確に行うためには,科学的なリスク評価法の確立が必要であり,厚生労働省の「動物由来感染症検討班」が共通感染症に関してリスク評価を行ってきた.そして,そのリスク評価に基づき,感染症法が見直され,大幅な法改正がなされている(2003年)<13>.

 7 獣医臨床におけるリスクマネジメント
  一方,獣医臨床分野においては,人の医療におけるリスクマネジメントのように体系立てられたプロジェクトは,筆者らの調べた限りでは見当たらない.1996年には,長谷川篤彦先生が学問上の観点から獣医療過誤や診療失宜について分析・考察されている<14>.また,2001年には,弁護士の立場から獣医療過誤を分析し,日本医師会における医療事故対策と同じような事故対策を獣医師に期待するという指摘もあった<15>.
 近年,犬や猫等の動物が「家族の一員」として位置づけられるようになり,それに伴い動物医療の重要性も高まって,より適正かつ手厚い医療が求められている.一方で,獣医療過誤,過剰診療,高額診療料金といった一部の獣医師による問題が取り上げられ,獣医師及び獣医療体制全体への信頼を揺るがしかねない事態となっている.これを踏まえ,日本獣医師会は1999(平成11)年9月14日に,獣医師及び獣医師会に対する社会の信頼を高め,より適正な動物医療を提供するため,「インフォームド・コンセント徹底宣言」(記者発表)を行った.この宣言において,動物医療におけるインフォームド・コンセントとは,「適正な医療サービスを提供することを目的として,獣医師と飼い主とのコミュニケーションを深め,診療に際し,受診動物の病状及び病態,検査や治療の方針・選択肢,予後,診療料金などについて,飼い主に対して十分説明を行ったうえで,飼い主の同意を得ながら治療等を行うこと」を意味するとされた[16].しかしその後も獣医療トラブルの増加は指摘されており<17>,各種学会や研究会でも獣医療訴訟や獣医療過誤に関する報告が行われている.
 前述のように,医療におけるリスクマネジメントの始まりは「病院という組織体の資産を守ること」であったが,現在では「患者の安全を守ること.職員の安全を守ること」が最も強く求められている.これはすなわち「病院という組織体の資産を守ること」でもあり,「病院という組織体を法的に守ること」にもつながる<18>.
 獣医療においても,獣医療の質を確保して,動物病院という組織を損失から守ることを目的としたリスクマネジメントの構築が必要であろう.実は,医療におけるリスクマネジメントが対象とするリスクとは,事故・紛争・訴訟にとどまらない.全米ヘルスケアリスクマネジメント協会(ASHRM)の「Risk Management Handbook」のなかでは,そのリスクを大きく次の6つに整理している.[1]患者のケアに関連するリスク,[2]医療職に関連するリスク,[3]従業員に関連するリスク,[4]資産に関連するリスク,[5]財務に関連するリスク,[6]その他のリスクである<6>.獣医療におけるリスクマネジメントは,その目的を明確にし,リスクの把握システムを構築することから始まる.また取り組みにあたっては,「今なぜ事故防止なのか」,「今なぜリスクマネジメントなのか」といった問いかけに対して,組織としての共通の認識を持つ必要があろう.



次へ