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総  説

 11 ヒューマン・エラー
(1)医師はエラーの常習者であると揶揄されているが,獣医師も同様であろう.ヒューマン・エラーとは,人が起こす誤りの総称である.従来,事故原因の多くは機械等の故障とされてきたが,近年,大多数の事故原因は人の過失,すなわち,ヒューマン・エラーであるといわれている.
獣医療においても,事故が発生すると,注意不足・確認不足等のヒューマン・エラーは常に問題となる.しかし,そのヒューマン・エラーを完全に防止することは不可能であろう.ここでは,獣医療過誤の素因として潜在するヒューマン・エラーの原因と対策について述べる.
ア ヒューマン・エラーの意味
  ヒューマン・エラーとは『ある目標に向って行動したとき,意図に反して,別の結果となった場合』と定義されている.人はなぜ,エラーを惹起するのか.エラーは人間の属性と見られ,人が潜在的に持つ素因に由来するといわれている.一般に人間の五感から脳に入力される情報量は,1秒に10の9乗ビットである.しかし,情報処理能力は,そのわずか1,000万分の1にすぎないらしい.したがって,情報の大半は捨て去られてしまう.そのときヒューマン・エラーは発生するという.
イ ヒューマン・エラーの起こる原因
 (ア) 大量の情報は,処理前に必要因子と不必要因子とに選別されるが,そのとき取捨選択を誤った場合.
 (イ) 脳に入力される情報は,いったん記憶にとどめられ,時間をかけて処理されるが,その情報が忘れられた場合.
 (ウ) 情報の一部は選別されず,いままでに得た知識,経験,訓練等により形成された脳の情報集積回路を介して反射的に処理される.そのとき異なった回路に入れてしまう場合.
 (エ) 大脳皮質系に蓄えられた情報は,脳に認識されている本能,情緒,意欲等の感覚に影響されるが,そのときに修飾・変形及び変質されてしまう場合.さらに,人の五感が繊細化し,脳が緻密化すれば,それに比例してエラーは生じやすいといわれている.
ウ エラーの減少法
  エラーを皆無にすることは困難であるが,減少させることは可能であり,それをエラー・レジスタンスという.方法としては,次のような手法が知られている.
 (ア) エラーを予見する.手術前のカンファレンスは,手術中におけるエラーの発生を未然に防止しようとする獣医師の努力である.
 (イ) エラーを回避する.エラー・ポイントを知り,それに接近しない等のエラー・ポイントを迂回する抗エラー対策を講ずる.
エ エラーの連鎖回避
 エラーがエラーを誘発し,大事故を惹起する例は少なくない.従って,エラーの連鎖はきわめて危険であり,その切断こそ獣医療事故を減らす原点であろう.
 (ア) 自動化の可能なものは自動化して警報装置を設置する.
 (イ) エラー発見のための監視装置を設ける.
 (ウ) 二重チェック制度の採用やペアマーク制度の活用等がある.
 (エ) マニュアルを作成し,自己点検を強化する.
 (オ) 動物の所有者も危険監督者に加える.

(2)獣医療行為のようなマンパワー・システムでは,業務のチェックは難しい.できれば複数の獣医師による確認,補助者による二重チェック等による早期発見が必要であろう.
 因みに,交通事故の調査によると,4%のドライバーが交通事故の約36%を重複して惹起しているという.また,年間4回の有事故ドライバーの事故発生率は,無事故ドライバーの約7倍に相当すると報告されている.これらは,多発事故獣医師の存在を示唆するので参考になろう.

 12 お わ り に
 最高裁判所は医療過誤の年間訴訟受件数は,1,000件に近いと報告している.医療過誤は患者側からの報告よりも医師・看護師・技師等,医療現場の従事者による内部告発が多いといわれている.一方,獣医療過誤件数を最高裁判所に尋ねても回答は得られない.獣医療過誤の実態把握はかなり困難であり,実際の過誤件数は不透明といわざるを得ない.
 また,仄聞によると獣医療過誤は内部告発よりも,獣医療を受診した動物の所有者による告発が主流だという.理由としては,獣医療では精錬された獣医療補助者が少なく,獣医師の過失を看破できない可能性も高い.それが内部告発の少ない理由とすれば,獣医療は医療より密室的だと誹謗されても仕方がないであろう.といって,獣医療周辺の構造革新も疎かではなく,高度な専門知識を有する補助者も養成され,動物飼育者の獣医療知識も高上しつつある.いずれにしても,獣医師のパターナリズムは通用しなくなる日は近い.決して高額ではない獣医療費も,健康保険に馴れた市民は,特に高度獣医における獣医療費を見掛け上高額と非難し,獣医療の過失探しに躍起となる可能性すら否定できない.
 医療と同様に,獣医療はむしろ医療以上に苦労が多くて報いの少ない職業といえよう.また,獣医療は医療に比較し,政策として担保されることも極めて少ない.例えば,人の感染症及び予防医療法における獣医師の業務と処遇を医師と比較してみれば歴然とする.それらを見越して,獣医療事故や過誤を回避する万全の体制を構築し,動物の生命を保全し,所有者の財産を守る新時代の獣医業の発展を期さなければ,獣医療の明日はないと思う.

池本卯典(いけもと しげのり) 略 歴
 専大法卒,日獣医大卒,東大研究生,東京女子医大研究科修了.科学警察研究所主任研究官,自治医大教授を経て名誉教授.日本獣医師会獣医事審議会委員,日本比較臨床医学会理事長等.現日獣医大学長.専攻は法医学・人類遺伝学・比較医事法学・生命倫理学.Baeltz賞受賞.New York Academy of Science会員等.


† 連絡責任者: 池本卯典(日本獣医生命科学大学学長)
〒180-8602 武蔵野市境南町1-7-1
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