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−獣医療現場における危機管理のあり方−
獣医療事故そのパラダイム
1 は じ め に 獣医療の診療対象は動物である.しかし,その固定概念は時として落し穴となる.獣医療の保護法益は往々に保護は動物であるが法益は人であり,診療活動の端緒であるインフォームド・コンセントに始まり,病状や治療の説明,診療費の支払い,獣医療に対する不満,訴訟に発展した場合の代理人・弁護士,検察官,裁判所,裁判官,適用法規等々,人獣に大差はない.表現能力を持たない動物の医療における受療行動は,まさに当事者能力に乏しい小児科の医療に極めて類似している.なお,医事法学者は広義に医師とは,医師(Physician),歯科医師(Dentist),獣医師(Veterinary Surgeon)をいう(穴田秀男:新編医事法,金原出版・1975),と述べている.獣医療領域の法的整備は未成熟な部分も多く,医事関連諸法規を参考にせざるを得ないこともあり,それが医師の概念を冒頭に挙げた理由である. 近年,医療における患者,市民生活における消費者と同様に,動物所有者の権利意識は強くなり,獣医師と所有者の相互間における権利や義務の主張による軋轢は増加傾向にある.特に,獣医療を動物保健のための投資より,むしろ消費の一環と捉える所有者も多く,その対応は難しくなった.これらの問題を念頭に,与えられた課題について論考させていただきたい. |
2 獣医療行為の適法性 濫りに人を傷害すれば,刑法上の傷害罪に問われるが,医師が医療行為として人体を侵襲しても違法性は阻却される.同様に獣医師が獣医療行為として動物体を侵襲しても,器物損壊罪や動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛管法)に問われることはない. これらの法律上の根拠は,刑法第35条《法令又は正当な業務による行為は罰しない》に該当し,違法性は阻却されるとした業務権説が通説とされている.しかし,違法性の阻却には,[1]獣医療が目的であること.[2]獣医療水準を充足していること.[3]動物所有者の承諾のあること.等が必要な要件となる. (1)獣医療目的 ア 疾病の予防や,治療を目的とした獣医療行為であること.医療では,自殺幇助,違法な人工妊娠中絶,人体実験等は正当な医療行為として許されていない. イ 手段ならびに方法が妥当であること.外科的手術では,多分に危険な要素があっても,動物の苦痛を排除する目的で,所有者の同意を得たのち実施することができる.いずれにしても,獣医療行為は危険を伴う行為であるが,それが許される法理論を《許されたる危険の法理:erlaubtes Risiko》という. (2)獣医療水準 獣医療水準を定めるには,専門性・地域性・診療施設の規模等の諸因子が関与する.また,獣医療知識や技術の水準は,獣医学の理論的水準ではなく,実践的水準である.実践的水準とは,該当獣医師の置かれている環境によっても異なる.例えば,僻地の単独開業者を都市における共同診療施設の獣医師や専門医等と比較して,同等の獣医療水準を要求することは不当といえよう. ア 専 門 性 開業獣医師の多くは総合診療獣医師であり,それに見合った獣医療水準が要求される.また,専門医であれば相応の技術を要求され,経歴や地位等も考慮される.外国の専門医資格等も専門性の推認資料になろう. イ 地 域 性 農村と都市では獣医療技術の修得の機会に差があり,都市でも獣医学系大学の近隣獣医師は情報入手の容易なことが多く,同一都市内でも単純に比較はできない. ウ 診療施設規模 (ア) 物的規模 獣医療法には医療法のように診療施設規模による区別はない.しかし,実際には画像診断,内視鏡・エコー・CT・MRI,臨床病理検査設備,入院施設,手術室設備等,診療施設の規模等には差がある.整備された診療施設で診療器材を駆使する獣医師に対する獣医療水準の要求度は高い. (イ) 人的規模 単独診療と複数の獣医師による診療等によっても獣医療水準の要求度は異なる. エ 緊 急 性 救急診療において,専門領域外の場合は高度の獣医療水準を問われることはないが,早期に専門医の再診を紹介することが求められる.結局,一般に獣医師としての面目の保てる程度の水準であれば,それが獣医療の実践水準といえよう. 獣医療における実践水準の程度は,獣医学の進歩や獣医療の発展と,常に連動している.進取の気概ある獣医師は常に前進し,その気概に乏しい獣医師は卒後教育にも無関心で,取り残される.大阪大学の故山村雄一元学長は,生前に《不勉強な医師はかつての西洋医と漢方医の差よりも落差がある》と話されていた.銘すべきだと思う. (3)所有者の承諾 『所有権は国家よりも先在する.つまり,法律前に存在する神聖不可侵であって,国家によって何ら制約を受けないものである』(末川 博編:民事法辞典,有斐閣,1971)と説かれ,資本主義国家における所有権は絶対視されている.従って,専断的に他人の所有権を侵害することは許されない.獣医療行為においても《専断的獣医療行為》による動物体の侵襲は違法といえよう.そこで,所有者の承諾は前提要件となり,説明と同意(Informed consent)は,その端緒となる.同意や承諾のない獣医療は,専断的獣医療行為として法的責任を追及されることもある. 反面,所有者の要求が公序良俗に反する場合,例えば,非常識な殺処分は社会的問題を惹起する原因にもなり,と畜場法違反,化製場法違反,動物愛管法違反等はそれに該当するといえよう. (4)例外的診療 所有者の依頼や同意がなくても,緊急な処置を要することもある.交通事故の被害動物はその一例である.また,手術による開腹や開胸等により予見しなかった疾患を発見した場合等,所有者の承諾を待っていては機を失するときは緊急に必要な処置をせざるを得ないこともある.刑法第37条は,このような行為を《緊急避難行為》として,法律上の責任は追及されないと定めている.緊急避難の対象には《財産》も含まれており,動物はそれに該当する.いずれにしても,[1]動物の生命に影響を及ぼす傷害や疾病であること,[2]治療に緊急を要すること等が必要要件である. (5)行政上の強制措置診療 社会秩序や公衆衛生上の必要から,国家または地方自治体の長が応急処置として身体や財産に対して,直接実力を行使することを命じることもある.これを《行政上の即時強制》といっている.その場合,前述の適法性の要件は度外視されることもある.家畜伝染病予防法・狂犬病予防法・と畜場法・BSE法・人の感染症及び予防医療法等に基づく措置等はそれに該当する. (6)限界的獣医療 医療では治験薬の臨床実験・性転換・安楽死・救急搬送中の治療等,行為自体は医療であっても治療目的に副わない場合や,反社会的な医療も含まれる.また,非医師である救急救命士による搬送中の処置等も限界的医療といえよう. 獣医療領域においても,医学・生物学・薬学・畜産学領域の動物実験,極端な形成外科手術等,行為は獣医療であっても,目的は非獣医療であったり,獣医師不在の獣医療行為も少くない.これらを限界的獣医療という.例えば,犬の個体識別用チップの挿入は,行為は獣医療であるが,目的は行政目的といえよう.医学(医療)においては,臨床実験・科学実験のいずれにおいても,道徳的・科学的原理の適合と,医師の監督下における有資格者による実験が提唱されている.獣医療においても例外とはいえない. |