会報タイトル画像


解説・報告

−海外で活躍する獣医師(III)−
私の国際協力20年

木下秀俊((独)国際協力機構マラウイ事務所フィールド調査員)

木下秀俊
 1 ザンビアで初めての活動
  40人の酪農家の署名が連なった嘆願書に,後ろ髪を引かれるおもいで,農業共済組合家畜診療所をやめた.
 そしてアフリカの地に立った.ザンビアでは現地語で「デンケテ」と呼ばれる病気で農家の牛が一晩で全滅してしまうとのことであった.致死率は80%とも90%とも言われていた.これには「コリドー・ディジィーズ」という別名があり,それがどうやらピロプラズマ病の一種の東海岸熱であることが分かるまでに数カ月かかってしまった.ザンビアでは聞いたことのない病名が出てきて,戸惑うことがしばしばあった.また,多少の診断はついても,薬はペニシリンとテトラサイクリンが時々手に入る程度で,どんな病気であっても,このどちらかを注射するしか能は無かった.能は無かったが農家が苦しんでいる「デンケテ」に挑むことになった.ピロプラズマ病は原虫を媒介するダニの駆除が予防として重要であり,僕らは農家の人たちに薬浴を薦めて歩いた.また,感染状況を把握するために,牧柵があって無いような広大な原野で,牛を追いかけ,引き倒し,採血し,鏡顕する日々を繰り返した.しかし,その頃日本の援助で作られたザンビア大学獣医学部の関係者は,僕らのこうした「デンケテ」への取り組みに冷ややかであった.
 当時,ある製薬会社がフルメトリン製剤を無償で提供してくれたのでザンビアで試験を行った.同剤は極めて有効であったが,私には試験結果をまとめて報告する能力が無かった.このような恩恵に報いることのできなかったこともあり,獣医師として仕事を続けるのに,日本は敷居が高くなってしまった.これが,今も海外でひっそりと暮らしている理由のひとつである.
 なお,薬剤を提供していただいた製薬会社には今でも心から感謝している.
 ザンビアでは,有鈎条虫がうじゃうじゃと寄生した豚を解体して,日本人みんなでお腹いっぱい食べた.後にみんなで多量の駆虫薬を飲むはめになり,この事件以来「藪獣医」の称号を頂戴している.
 見渡す限りの草原に落ちていく太陽は思わず涙が出るほど美しかった.
 国際協力事業団(現在の国際協力機構Japan International Cooperation Agency.以下「JICA」)が実施する青年海外協力隊(以下協力隊)に参加したのは平成元年,28歳の時だった.
 ザンビアにもう少しいたかったが日本への社会復帰も気になり3年で日本に戻り,ひょんなことから小動物病院で犬や猫の診療をすることになった.僕は犬も猫も大好きだ.犬も猫も僕のことを好きだった.しかし,犬や猫を飼っている方々は僕のことを好きではなかったようだ.当初の約束どおり1年で退職した.勉強になった.

 2 国連監視下のカンボジアへ
 カンボジアでは内戦が一応終結していたが,国連選挙監視団の一員だった日本人が亡くなったり,文民警察官が日本から派遣されたりしていた.首都プノンペンには地雷で足を失った人たちが大勢おり,宿舎の近所にあるマーケットが襲われて銃声が飛び交うこともあった.  内戦に明け暮れた除隊兵士が農村に再定住できるようにという「農村開発・再定住プロジェクト」に携わることになった.これは内戦終結後のカンボジア支援再開のために,日本の政府開発援助で国連に拠出した予算を使い,フィリピン,インドネシア,タイ,マレーシアの技術者が現地カンボジアで技術協力をするという形のプロジェクトであった.日本からは命知らずの協力隊経験者10人が参加し,僕はその中の1人だった.
 2つの県の獣医事務所に一日おきに顔を出した.カンボジア人の同僚たちは公務員としての給料をまともに支給されない状況であったため,副業を持たざるを得なかった.僕が事務所に毎日行くと彼らが副業に精を出せないため,2つの事務所に交互に行くように気をつけた.内戦が終わっても地雷は埋まっており,足を失うのは人間だけでなく家畜も同じであった.
 ある村で,死んだ牛を食べた人たちが死亡したり下痢を訴えたりしていた.人々に皮膚炭疽とみられる病変が観察された.近隣の人たちに死んだ牛を食べないように注意を促すとともに,熱の高い家畜に抗生物質を注射することになった.翌日1頭の馬が死に,農家の人たちは注射が死因だと考えた.農家は怒っており,こちらの身が危ないからその地域には二度と近づくなと同僚に言われた.何もかもが破壊されたこの国では,獣医師という職業自体の概念も破壊されてしまったようで,我々の仕事は理解されないこともあった.
 一方で,宿舎の隣にあった水田で子供たちと田植えをしたり,プロジェクトが修復した42キロの道路を利用したマラソン大会を企画したりと,本業とは関係の無いところで充実した1年であった.

 3 第2の故郷となったフィリピン
  フィリピンでは協力隊の人たちが牛の人工授精を普及させようと頑張っていた.長く日本の協力を受けているフィリピン人のなかにはJICAが何でも買ってくれるものだと思っている人たちがおり,こうした人たちに「日本はサンタクロースじゃない」と言い続けた4年間であった.
 新宿にあるJICA本部に1年ほど勤めることになり,直検手袋をネクタイに替えた.都内に家を借りるより実家の近くから通勤するほうが安く上がるので新幹線通勤となった.フィリピンの畜産をすべて知っているかのような顔をして,外務省や農水省との会議に参加した.また,日本の代表のような顔をして開発途上国と呼ばれる国々の高官と交渉をした.こうした仕事は心臓に悪かった.だいたい,学生時代,国家試験の学内模試でワースト3の僕がそんな大役を担うのは同級生が許してくれまい.
 縁があってフィリピンに戻ることになり,水牛と肉用牛を改良しようというプロジェクトの一員となった.JICAの技術協力専門家として日本の農水省の方々などと協力しての仕事であった.水牛はその穏やかで控えめな性格のためか発情兆候を露にみせてはくれなかったため我々は苦しんだ.そこでオブシンクなる技術を使ってみることとなった.
 水牛というのはなんとなく愛嬌のあるいい奴らであったが,フィリピン農業省の期待の星であった肉用牛ブラーマンの跳躍力はたいしたもので,私は牧場で文字通り踏んだり蹴ったりの目にあった.
 おごれる人も久しからず.収入は良かったが,考えるところがあり,2度目のフィリピンは2年でおいとました.
 しかし,2度あることは3度ある.フィリピンのセブ島で実施されていた「セブ州地方部活性化計画」における家畜関連の活動を評価することになり,人様の仕事にあれこれ言うのはおこがましいが,またフィリピンに3カ月間お世話になった.水牛や山羊の配布,獣医師不足を補う技術者の育成事業などの取り組みについてコメントを残してきた.
 セブの海では多くの魚に巡り合うことができた.
 フィリピンには通算6年以上暮らし,2人の子供を優しく育ててくれた第2の故郷となった.

次へ