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解説・報告

私の歩んだ野生動物救護活動(I)
−野生動物専門獣医師への道のりと福島県鳥獣保護センターの設立−

溝口俊夫(福島県野生動物専門員,福島県鳥獣保護センター参与)

溝口俊夫
 縁とは本当に不思議なものだと思う.30歳の時,獣医学系大学に入学するキッカケが神戸生まれの子猫だった.37歳で共済の獣医師から野生動物専門の獣医師に転職するキッカケが,パラボックスウイルス感染症に罹ったカモシカであった.それから60歳になる今日まで,野生動物一筋で23年間を過ごしてきた.そのような経緯も含めて,福島県鳥獣保護センターの歴史とともに自身の活動を振り返ってみたい.

 今にして思えば,チッチと名づけられた子猫との出会いはかなり運命的であった.この話は,神戸の芦屋で野良猫だったチッチが,たまたま東京の根津にあった八百屋さんに貰われてきたところから始まる.その八百屋の隣のアパートに住んでいたのが,当時新婚ホヤホヤの私と家内だった.その頃の私は,工学部の大学院を終え,そのままシステム工学の研究を続けるために,長距離トラックのアルバイトをしながら大学に残っていたところで,その時はまさか獣医師の道に進むことになるなどと,想像すらできなかった.
 ところが,ある日,チッチが肺炎に罹り,動物病院へ通うはめになる.すぐに肺炎は直ったが,喘息発作を起こすようになった.それも排気ガスを浴びると,必ずと云ってよいほど呼吸困難に陥る.苦しそうな表情を見るに見かね,ついに猫を連れ東京脱出を決意したのである.今考えてみると,一匹の猫のために人生を変えてしまう自分が何とも不思議であった.しかし,誰かが背中を後押しているような気がして,とにかく迷ったという記憶はない.そして,栃木県の岩舟へ.転地療養の結果,チッチの発作はすぐに治まってしまった.
 さらに,またそこで運命的な出会いが待っていた.時々虫下し等をもらいに行った所が産業動物の診療施設だったのである.しかも,そこでは子牛の哺乳というこれまで味わったことのない甘美な体験をしてしまった.こうして,自分自身では気づかないうちに,気持ちのどこかに獣医師へのモチベーションが蓄積されていった.そんな折,忘れもしない30歳の1月,「来年度から獣医科6年制」の新聞記事.獣医科に入るならば,今年しかない.私の中のモチベーションのマグマが,突然! 轟音を立て,空に向って噴き出したのだった.そして,岐阜大学での4年間はあっという間に過ぎて行った.夢は当然,産業動物の獣医師.意気揚々として,福島県農業共済組合連合会二本松家畜診療所の門を叩いた.
 あの時の,安達太良山の美しさ.季節は3月下旬,残雪を頂いた優美な山容は,今でもはっきりと脳裏に刻みこまれている.ところが,共済連に入ったその年の12月,県の教育委員会からの依頼で,2頭のカモシカの治療と原因究明に当たることになった.運命はまた向こうから訪れた.でも,なぜ,私に白羽の矢が立ったのか? その頃,岐阜大学でカモシカの総合的な研究が始まっており,最初の解剖に立ち会ったのが私たちの学年だったことが理由かもしれない.さて,一歳年上で,同じ東京出身の吉田幸四郎先生の協力.それから故菅野幸一所長と故鈴木和夫次長.業務時間の中で,カモシカの治療と研究に専念させてくれたのだから,度量の大きさは太平洋並みである.それに,「獣医師がこのようなことに取組まないから,評価されないんだ」と言う言葉はもう極めつけだった.でも,あの頃は,人の心にゆとりのあった,いい時代だったのかもしれない.その時,病因究明でお世話になったのが岩手大学病理学研究室の大島寛一教授(現岩手県獣医師会顧問)と岡田幸助助教授(現教授)で,電子顕微鏡写真のなかに見事にパラポックスウイルスの姿をとらえてくれた.その足で,岐阜大学解剖学研究室の故鈴木義孝先生のもとへ.組織像には扁平上皮癌と見迷うような構造物が写し出されていた.当時,伝染性膿胞性皮炎とか,丘疹性口炎とか,扁平上皮癌ではないかと言われていた時代だった.  
日本カモシカのパラポックウイルス感染症
日本カモシカのパラポックウイルス感染症

パラポックスウイルス電子顕微鏡写真(岩手大学病理学教室)
パラポックスウイルス電子顕微鏡写真(岩手大学病理学教室)
 当然,マスコミも駆けつけてきて,それがキッカケとなって様々な野生動物が診療所に運び込まれるようになった.ところが,診療所で野生動物を扱う数が増えるにつれ,いろいろな批判も聞こえてくるようになる.その時の防波堤になってくれたのが渡辺栄一主任獣医師と三浦照生先生(現福島県獣常務理事)だった.福島に来て27年,今も,いろいろな方々から支えられている.60歳になった今でも子供のように夢中になってしまう危なげないところが改まらず,見るに見かねて支援の手を差し伸べてくださるのだと思う.それにしても,この性格は死んでも直らないような気がする.
 普通なら,ここで,産業動物や小動物臨床のかたわら,ボランティアで野生動物の治療を続けるというのが通例だと思う.ところが,運命は,ここでも立ち止まってはくれなかった.その翌年の3月,福島県鳥獣保護センターが建設されたのである.それも,私の往診エリアのすぐ隣の村に.こうなるとボランティアにも拍車がかかり,夜間だろうと,休日だろうと,要請があれば野生動物獣医師に変身する.こうして瞬く間に3年が過ぎたある日のこと.大玉村の浅和定次産業課長(現大玉村長)から保護センターの専任獣医師にならないかと打診された.当時,保護センターと県民の森の管理は福島県から地元の大玉村に委託されていたのである.この時は,さすがに迷った.猫を連れて東京を脱出した時のような決断は,すぐにはできなかった.なぜなら牛や豚が好きで産業動物獣医師になったのだ.それに,農家とのつきあいも楽しかった.若い後継者たちと深夜まで牛について語り,酒を酌み交わすこともしばしばだった.だが,さんざん迷った末に選んだのが,野生動物だった.  
 共済を退職する時に,「物好きだね」と言われたのを今でも記憶している.確かに,そうだろう.野生動物は農作物に悪さをするか,人を騙す存在くらいにしか考えられていなかったのだから.しかし,福島県鳥獣保護センターが設置されたのが昭和57年(1982年).その前後に,幾つかの県で保護センターが設置されている.当時の環境庁としては,保護センターの設置を通達等で奨励していたのである.後に,話題に出てくると思うが,日本でも有名な米国のPAWSワイルドライフ・リハビリテーション・センターが設立されたのが1981年である.日本だけでなくて,欧米でもそのような風潮にあったのかもしれない.あくまで推測だが,日本では野生動物救護が広く国民の要望を受けてというより,誰か熱心な中心人物がいて,保護センターの設置を推進したのではないだろうか.今のような環境問題の盛り上がりもなかったし,野生動物救護と環境問題がともに考えられていたとは思えない.というのも,環境問題が一気に表面化したのが昭和64年(1989年)の読売新聞のガイアのシリーズや朝日新聞の石 弘之氏の「地球環境報告」が契機となったと考えると,あと数年後のことであるからだ.
 こうして,昭和60年(1985年)4月1日,私が37歳の時,福島県鳥獣保護センター専任獣医師を拝命した.正式名称は大玉村事務吏員である.東京を脱出してから,10年.不思議なのが,あれほどちらちらと顔を見せていた運命の女神はそれ以来ぷっつりと姿を見せなくなってしまった.ただし,女神の小間使いみたいのが時々やって来ては,あれこれ言うものだから,「はいはい」と言うことを聞いて,環境教育の普及で全国を飛び回ったり,GISでエコロードのデザインをしたり,テレビの番組づくりの手伝いをしたり,長期休暇をとってアフリカやボルネオ島の熱帯雨林調査に行ったり,もちろん野生動物が基軸だけど,ずいぶんいろいろなことに携ってきた.

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