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 4 熱帯牛の専門家としての活動開始
  1978年にマダガスカルで日本の政府開発援助による「北部畜産開発計画」を実施することが両国政府で合意された.日本の実施機関は国際協力事業団(JICA.現(独)国際協力機構)である.これがJICAで初のアフリカにおける畜産プロジェクト(日本人専門家派遣,相手国技術者の研修受け入れ,機材供与の3点をセットにした数年間の集中的技術協力の型)となった.私はマダガスカルでの経験を買われ,このプロジェクトの派遣専門家となり,漸くにして念願の熱帯畜産開発に従事することになった.日本ではほとんど知られていなかったこのマダガスカルで何故,JICA最初の畜産プロジェクトが生まれたのであろうか.その大きな理由は,マダガスカルには口蹄疫がなく,日本が生肉を輸入する際の条件をクリアできたからである.広いアフリカの中で唯一マダガスカルだけが日本へ生肉,すなわち冷凍カット肉を輸出する条件を備えた国で,日本への輸出実績もあった.マダガスカルは島とは言っても大きな中大陸(日本の1.7倍の国土)である.人口800万人に対し牛頭数800万頭,つまり,国民1人当たり牛1頭が飼われている別名牛の国と言われていた.大きな産業のないマダガスカルにとり,肉牛の開発は重要な国家目標の一つであった.マダガスカルプロジェクトには1987年の開始から終了まで5年半関わった.主な活動は広大なディエゴズアレス県(現,アンチラナナ県)に郡単位で配置されていた畜産局獣医支所の現地職員を通して農民の家畜生産性を向上することであった.私は調整員と飼養管理を兼務したので,普及の枠組作りと調整,熱帯牛の飼い方の改善に取り組んだ.ここで培った経験がさらに他の国々で活きてくるとは思いもよらなかった.
 JICAが南米の畜産開発に大きな支援を始めていた.マダガスカルから戻ると,南米のボリビアで1985年からの5年間半,インドネシアで1991年からの4年間,再びボリビアへ1996年から7年間,と縁あってJICAの技術協力に深く関わることになった.この間の指導分野は牛の繁殖障害,妊娠鑑定,胚移植,人工授精(凍結精液生産から授精技術まで),後代検定,飼養管理及び業務総括等であった.まさに学生時代に描いていた熱帯畜産開発に没頭することになったのである.
 とくにボリビアでは熱帯牛の能力を存分に試す機会に恵まれた.熱帯牛の起源は現在のイラクだが,インドには多くの種類の熱帯牛品種がいる.ヒンズー教の影響で地域間の牛の交雑が避けられてきたために地方ごとに特有な品種が作出されたのである.主な18品種が登録され,その内の3品種,オンゴル種,ギール種そしてカンクレイ種が南米のブラジルに輸入された.南米では各々,ネローレ種,ジール種,そしてグゼラ種と呼ばれている.ネローレ種は肉牛として,ジール種は乳牛としてさらに改良され,ブラジルを経由してボリビアにも輸入されていた.ヨーロッパ牛,熱帯牛そしてその雑種の能力比較試験を行ったが,熱帯牛は日中の直射日光の下,呼吸数,直腸温度が有意に抑えられるという暑熱抵抗性を示し,またダニ抵抗性については畜体噴霧駆除を2カ月間行わない中でダニの数が余り増加しない等,熱帯で飼養する上での長所を十分に発揮した.1997年からネローレ種の能力検定を開始した.これは優良種雄牛を選抜する方法だが,ボリビアでは7カ月令の離乳子牛を複数のブリーダーから集め,同じ管理下で飼養するステーション方式を採用した.期間は10カ月間であった.熱帯牧草を利用し,集約放牧による草地検定だったが一日当りの平均増体重(DG)は第1回検定:658g,第2回検定:726gという驚くべき高成績が示され関係者を驚かせた.一般の農家の増体は平均350gだから3歳齢で420kgの出荷体重に達する.私たちが示した成績は,放牧草のみの安価な方法により2歳齢で出荷体重に到達した.上位群の個体は1,000gを超えた.熱帯牧草でも栄養総量を充分採食させる集約放牧,すなわち粗蛋白が多く含まれている若葉の牧草を短期間の転牧により順次食べさせる方法は高い効果が期待できることを,またブラジルで改良されたネローレ種は,この適切な集約管理に充分応えてくれることを実証することができた.
写真2 優しい管理により懐こく育つネローレ種(ボリビアの人工授精センターで撮影)
写真2 優しい管理により懐こく育つネローレ種(ボリビアの人工授精センターで撮影)
写真3 ブラジルからボリビアへ輸入した乳用タイプのジール種(オデコの形と耳のねじれが特徴)
写真3 ブラジルからボリビアへ輸入した乳用タイプのジール種(オデコの形と耳のねじれが特徴)
 5 後方支援グループの支え
 今まで指導してきたどの国でも幸いにして人が育ち,活動を継続してくれている.これは日本の獣医学と畜産学教育の基礎が大きく役立ったこと,また多くの公的私的機関が途上国からの研修生を前向きに受け入れ,時には短期専門家を派遣されたこと等の大きな協力があったからに他ならない.その当時の私には国内に所属先・勤務先というものがなく,JICAと契約ベースの業務により熱帯の畜産開発に携わってきた.
 中央畜産会,家畜改良事業団,ホルスタイン登録協会,農林水産省の家畜改良センターと畜産試験場,日本大学の臨床繁殖学研究室と畜産経営学研究室,マダガスカル国以来の旧友戸田氏を通じて知ることができた岩手県の畜産関係機関,そして千葉県農業共済組合の方々の支援をいただいてきた.これらの機関は私の帰国時の頼もしい情報源であると同時に励まされた母港のようなものであった.海外においては一人の日本人獣医技術者の活動範囲には限界がある.このような協力と連携により予想以上の成果が示せたことを心から感謝している.

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