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解説・報告

−海外で活躍する獣医師(II)−
熱帯牛スペシャリストを目指して

冨永秀雄(国際協力機構「ニカラグア国中小規模農家牧畜生産性向上計画」長期専門家)

冨永秀雄
 1 は じ め に
 1970年に日本大学獣医学科を卒業した.1973年1月,950トンの小さな冷凍貨物船で品川から出航し,一獣医師として海外への第一歩を踏み出したのを昨日のことのように思い出す.爾来,35年間を海外,とくに熱帯の発展途上国で畜産開発の夢を追い続けてきた.
 2 熱帯農業・畜産との出会い
 獣医学科への進学は動物が好きという単純な動機で あった.当時の新聞そしてテレビは,世界の人口増加と食料難,特に食肉の供給危機を報道していた.自分も,獣医師という技術を活かし,この分野に関わることを強く求めるようになった.在学中からやりがいのある仕事を模索し,興味ある仕事に携わっている人を卒業者名簿,新聞記事やセミナーで知り得た諸先輩方の中から探し,厚かましくも訪ねたりした.もう故人になられた方々も含め,いずれの方々も懇切丁寧に話を聞かせてくれた.
 そのような状況下で三菱商事取締役の宇佐美 博先生から伺った熱帯牛の話は私の心を魅了した.「世界の牛の60%は熱帯の発展途上国で飼養され,その内の80%が熱帯牛の純粋種または雑種である.すなわち世界の半分は熱帯牛である.将来,熱帯からの牛肉供給は重要であるが日本人には熱帯牛の専門家がいない.熱帯牛は別名インド牛,瘤(コブ)牛,ゼブー牛とも呼ばれ,ヨーロッパ牛(温帯牛)と比較し熱帯の暑熱に対して抵抗性があり,生産性は低いながら厳しい熱帯の環境下でも逞しく生きてゆくことができる」というものであった.また「獣医師が卒業後に畜産学を学ぶのは,その逆よりか容易で,獣医師が畜産開発には携わるのは理想である」.これらの助言を通じて私の将来がおぼろげながら展望されてきた.しかし,不安がなかったわけではない.一生の仕事として本当にやれるのか? そのような仕事の場があるのか? 線路の敷かれた道はなかった.
 日本大学拓殖学科の後藤連一先生の指導を得て,拓殖学科の仲間と藤沢校舎の実習地や三重県鳥羽で開墾に汗を流し,独り「獣医拓殖学科」を名乗り,将来の仕事を模索した.東京・青山のアジア会館に海外農業開発財団が創設されたのもこの頃であった.毎週土曜日,熱帯農業に関するセミナーが開かれ,熱帯の農業開発に関連する土壌,灌漑,農業,畜産等々,異なる分野の大先輩による現地の経験談に耳を傾けていたのを懐かしく思い出す.参加者の多くは経験豊富な社会人で,学生の私は後ろの隅の方に遠慮して小さくなりつつも,熱帯畜産開発への興味をさらに高めていった.

 3 卒業後の挑戦(マダガスカルとの出会い)
 卒業してすぐに,石井 進先生の助言と推薦で東京小平に在った農林水産省家畜衛生試験場に就職した.豚コレラ研究に配属され,室長・熊谷哲夫先生,梶原先生,古内先生から豚コレラ診断法,ワクチン製造法を教えていただいた.これらも海外で必要とされる技術であるが私はラボよりフィールドが適していることを知った.そして熱帯の畜産開発の夢を絶つ事ができず,意を決して試験場を後にし,将来を想定した様々な技術を研修した.それは高崎ハムの工場で食肉加工技術,高崎原子力研究所でのコバルト60照射による食品保存技術,神奈川県畜産試験場や藤沢種豚繁殖センターでの豚の飼養技術等であった.
  その頃,アフリカ協会の福永英二理事長から「あまり高い期待を持たず,気楽な気持ちでアフリカの発展途上国を見て来なさい」と,貨物船を定期的に運航している川上インターナショナル(株)を紹介していただいた.川上社長は二つ返事で気持ちよく了解してくれ,しかも無料で冷凍貨物船に乗せていただくことになった.そして45日間かけてアフリカ大陸のモザンビーク海峡沖に浮ぶマダガスカル島へ到着した.約1年半を級友である河野
俊隆君とともに,マダガスカル,タンザニア,ケニア,エチオピアを訪れ,これらの地域の自然,農業,畜産,風土,伝統に触れることができた.熱帯牛は予想通り逞しく,私の描いていた畜産開発の心に火をつけた.厳しい乾季はサボテンや木の小枝を食べてでも生きながらえるのである.役畜として鋤を引いて固い土を耕起し,また降雨後,ぬかるんだ土地を蹄で耕す蹄耕法も知った.これには数日間のゆるやかな放牧法と牛群を泥だらけになって追い回す短時間の強制方法があった.もちろん牛車も引く.また牛糞は家の泥壁に混ぜて使われ,燃料や堆肥にもなる.地方の農民の多くは貧困だが,熱帯牛の生産性向上,農業と畜産の効率的な複合経営の改善は貧困脱出の鍵であることを確信することができた.また,アフリカの人々から教えられることも多くあった.貧しい中でも底抜けに明るい人々,家族との深い絆,貧しくとも自分より貧しい人を惜しみなく助ける姿勢であった.これらはちょうどその頃の高度経済成長とともに日本では希薄になり,忘れ去られつつあったものばかりであった.
  当時の日本は総合商社が先を競って熱帯で作物を生産しそして輸入する開発輸入の盛んな時代であった.日本から遠いマダガスカルでも食品の総合貿易商社の(株)東食とアサヒ物産(株)がSEPAMという実験農場を設置することになった.私はその支配人として採用され,冷涼な高原地帯に3箇所,高温多湿の海岸地域に1箇所,合計4箇所の農場を設置し,雑穀類,陸稲,とうもろこし,唐辛子,タバコ,パパイヤ,トマト,スイカ,メロン,ゴマ,ステビア等々,多種類の作物の試験栽培を行った.ここでの3年間の経験はその後の家畜の飼料作物,草地の栽培管理に大いに役立ったことは言うまでもない.
写真1 「牛耕」(1983年,戸田忠祐先生のスケッチ)
写真1 「牛耕」(1983年,戸田忠祐先生のスケッチ)

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