4 日本の競馬におけるアンチ・ドーピング (財) 競走馬理化学研究所設立当時,最初は競馬における興奮剤の摘発を目的としてカフェインやストリキーネ等8品目8薬物が検査対象とされた.その後,薬物検出法が開発される度に追加されていき,現在は64品目86薬物が『禁止薬物』として日本中央競馬会競馬施行規程(以下「競馬施行規程」という)の別表2に定められている. この禁止薬物というのは,競馬法第31条にある「その馬の競走能力を一時的にたかめ又は減ずる薬品又は薬剤」のことを指しており,競馬に出走し,1〜3着になった競走馬から採取された尿検体は,この表に掲げられている64品目86薬物の存在について(財)競走馬理化学研究所で検査される. 別表2 第132条,第136条関係
競馬場では,各レースが終了した後に尿検査を受けることになる競走馬には1頭に一人ずつ被検馬誘導員が付き添い,検体採取所と呼ばれるところで尿検体が採取される. 万が一,(財)競走馬理化学研究所においてこれらの薬物が陽性となった場合には,その出走馬は失格となり,馬主はその馬に関わるすべての賞状・賞品・賞金を受け取ることができなくなる.それだけではなく,JRA等の競馬主催者からは「競馬法違反の疑いあり」ということで警察に告発され,所轄の警察が薬物陽性事件として捜査に乗り出すことになる. 捜査の結果,「出走すべき馬につき,その馬の競走能力を一時的にたかめ又は減ずる薬品又は薬剤を使用した者」は,3年以下の懲役又は300万円以下の罰金に処せられる.また,その競走馬を管理する調教師に対しては,明確な因果関係が判明しなくとも競馬施行規程における管理義務違反ということで処分が下されることになる. 日本の競馬における薬物規制制度は,もともとは薬物を用いて競走能力を左右しようとする不正行為防止のために整備されてきた.日本の法律では『罪刑法定主義』(ある行為を犯罪として処罰するためには,立法府が制定する法令(議会制定法を中心とする法体系)において,犯罪とされる行為の内容,及びそれに対して科される刑罰をあらかじめ,明確に規定しておかなければならないとする原則)といって,罰するにあたっては何をしたら罰せられるのか,薬物については何という薬を使ったら罰せられるのかをあらかじめ明示する必要があり,競馬関係法令に基づき競馬施行規程の別表(2)に64品目が明示されているのである.さらに,競馬施行規程第132条第2項においては,「禁止薬物以外のものであっても競走能力を高め,又は減ずる目的をもって使用してはならない」と規定され,上述の64品目86薬物の禁止薬物に限らず,薬物というものを幅広く規制している.
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5 薬物陽性事件を未然に防止するために |
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6 海外の競馬における薬物規制制度 日本での禁止薬物の取り扱いはこれまで述べてきたとおりであるが,海外の主たる競馬開催国の薬物規制はどうなっているのだろうか? 最初にお話したディープインパクト号が3着失格となった凱旋門賞競走は,毎年10月にパリのロンシャン競馬場で行われる世界最高峰のレースであり,世界中の競馬関係者なら誰もが究極の目標とするところである.このレースを勝つことは,その年の最強馬としての称号も獲得することになり,ディープインパクト号が凱旋門賞競走を優勝していれば,種牡馬としての価値は100億円とも言われていた. その凱旋門賞競走に合わせて毎年,世界各国の競馬主催者の代表が一同に会する国際競馬統括機関会議(Conference Internationale des Autorites Hippiques:パリ会議)が開催される.この会議は世界中の競馬統轄機関の事務局長クラスが集まって競馬の政策,運営上の規則の統一,情報・経験の交換,相互援助,共同研究の推進を目的としており,会議参加国は54カ国65団体に及び,日本も1978年から毎年参加している. このパリ会議での協議結果は「生産,競馬及び賭事に関する国際協約(パリ協約:http://www.horseracingintfed.com/resources/2007_choose_eng.pdf 参照)」として取りまとめられ,世界各国の競馬ルールに盛り込まれている.競走(レース)の格付けから競馬で使用する鞭の長さのルールに至るまで,細かく定められているが,禁止薬物についてはこのパリ協約第6条のなかで,次のように記されている.
フランス等では調教師自らが,競馬主催者であるフランスギャロに対して,「競馬が薬物の影響下にないように,もっと検査をしっかりやってくれ.」と要望するようである.この真意は,本当の意味での強い馬,後世に残すべき強い馬の選抜(競馬の成績)が,薬物の影響下にないようにして欲しいと強く望んでいるからなのである.これは,陸上競技の選手が「他の選手は何かドーピングをしているかもしれないから,もっと検査をやってくれ.」と言うのと同じことかもしれない.
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7 日本の競馬における薬物規制制度の今後 毎年11月には東京競馬場に海外の有力馬を招待してジャパンカップ競走が開催される.この他にも数多くの国際交流競走を施行し,海外からの競走馬が日本に遠征してくるようになった今日,日本の競馬における薬物規制制度も,今後は世界の潮流に合わせていく必要がある.日本の競馬だけが世界のルールから外れた特別なルールで行われるわけにはいかない.具体的には,「競走能力を一時的にたかめ又は減ずる薬品又は薬剤」いわゆる禁止薬物だけではなく,「馬の福祉」や「事故防止」の観点から禁止薬物以外の薬物,例えば痛み止めや消炎剤の類は規制していこうと動き始めている.もともと競馬法では,能力を左右する薬物の類いは幅広く規制されてきたところだが,これに加えて,使用された薬物が判らないようにする利尿剤等の隠蔽剤の類や,繁殖活動に影響を及ぼすホルモン製剤といった薬物まで規制対象を拡げ,海外の競馬主要国と歩調を合わせていこう,いわゆるグローバル・ハーモナイゼーション(全世界的な協調)を目指していこうとしている. 一昨年から日本の競馬も競馬一流国の証であるパートI 国として取り扱われるようになった(競走及び競走馬の国際的評価の指針とされているもので,競馬主催国はパートI からパートIV までランク付けがされている.海外に門戸を開いて国際交流競走を実施し,一定レベルの競走を施行している国だけがパートI 国として認められ,現在は日本を含め,英国・仏国・愛国等16カ国がパートI 国とされている).日本の競走馬も数多く海外の競馬に遠征し,海外からも多数の競走馬が日本の競馬に出走してくるようになった.こうした事情から,ジャパンカップ競走をはじめとする国際競走を施行していくうえで,世界各国のルールに日本のルールを合わせていくことは,日本の責務でもある. |
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8 終 わ り に JRAには現在1,800名ほどの職員がいるが,そのうち200名弱は獣医師免許を有する職員である.必ずしも全員が競走馬の診療に携わっているわけではなく,競馬の要である審判業務部門,競走馬の研究部門においても獣医師職員が活躍している.「馬」という動物で「競馬」という産業が成り立っているのであるから,我々獣医師職員は馬たちに感謝しながら日々の業務に就いている.故障した馬を助けることは当然のこととは考えているが,産業動物であるが故に自分たちの思いが通じないことも多々あるが,少しでも競走馬のためになればと願って業務に就いている. 本誌の読者におかれても,是非一度競馬場に足をお運びいただき,緑の芝を全力で走りぬける競走馬をご覧いただきたい.そこでは,「馬」が馬本来の能力を発揮している姿がご覧いただけると思う. |
† 連絡責任者: | 横田貞夫(JRA馬事部獣医課 課長) 〒106-8401 港区六本木6-11-1 TEL 03-3591-5251(大代表) FAX 03-5785-7541 E-mail : Sadao_Yokota@jra.go.jp |