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 1 犬の人工授精の歴史
 犬の人工授精は,今から228年前の1780年にイタリアの生物学者Spallanzaniによって行われた.彼は,30頭の雌犬に,精液を1.0mlずつ腟内に授精して,18頭(60%)を妊娠させた.これは,哺乳動物の人工授精における最初の成功であった.その当時は,まだ受精に関する知識はきわめて低く,卵子及び精子の生理に関しては,ほとんど理解されていなかったと思われる.しかし,哺乳動物の中でも,特に犬の発情は,発情出血,外陰部の腫大及び雄犬に対する交尾の許容状況が明瞭である.また,これに加えて,犬の精液採取が他の動物に比較して容易であることが,当時としては驚異的な成功例につながったものと思われる.
 犬は経済性を重視する産業動物と異なり,その多くは伴侶動物として飼育されてきた.このため繁殖技術の進歩,特に人工授精の発達による犬の増産によって,その経済的価値が下がることから積極的でない国もあった.しかし,各国の研究者は,犬の新鮮精液,低温精液及び凍結精液による人工授精に関する研究を積極的に進めてきた.特に,アメリカの犬の登録団体(AKC)は,1982年から犬の人工授精を認め,各地に犬精液銀行が存在するまでになった.
 犬の凍結精液の最初の成功は,1969年Seager & Platz(アメリカ)による錠剤精液によるものであった.これはPolge & Rowsonによる,牛の凍結精液の成功から17年後であった.

 2 犬の交配適期
 犬の卵子は,第一卵母細胞の未熟な状態で排卵され,卵管を下降しながら約60時間後に減数分裂を行って第二卵母細胞に成熟し,受精能を獲得する.このため犬卵子は,一般の動物と異なり,受精能保有時間が48時間と長い.また,精子の受精能保有時間も長いため,図1に示したように,犬の受胎可能な交尾期間は,発情期の開始から約1週間と長期にわたる.しかし,排卵前の交配では,卵子が受精能を獲得するまでに長時間を要するため,精子の受精能が低下し,排卵数に対する産子数が減少する.このようなことから,犬の真の交配適期は,排卵後3日から5日の約3日間である.すなわち雄犬に交尾を許容(発情期)するようになってから5〜7日,発情出血が開始されてから平均15〜17日に当たる.
 一般に,犬の交配適期の判定は,発情出血からの日数,発情出血の性状,雄犬への交尾の許容状況,腟垢所見,血中LH値の上昇,血中プロジェステロン(P4)値の上昇を基準として行われている(図2).また,超音波画像診断装置によって卵胞の発育,排卵の状況を観察することは可能であるが,排卵直前と直後の所見を区別することが困難で,また,頻回に実施する必要性があるため,臨床的ではない.
 これらの基準の中で,最も正確であるのは血中LHサージをとらえることである.LHサージから排卵までは約2日であるが,LHサージは約半日と短いため,これをとらえるためには頻回採血が必要となり,臨床的でない.また,犬のLHの測定は,RIA法で行うために日数が必要となる.そこで現在では,血中P4値の上昇から排卵日を推定する方法が臨床的に応用されている.もちろん,血中P4値と臨床所見を加えて総合的に交配適期を判断する.
図1 犬の受胎可能な交尾期間
図1 犬の受胎可能な交尾期間

 3 犬の凍結・低温精液による人工授精の適期
 犬の凍結・低温精液による人工授精の適期は,交配と異なり,精液の性状が低下しているものを使用するため,厳密に判定しなければならない.そのためには,犬の交配適期の項でも述べたように,排卵後3〜5日の「真の交配適期」に人工授精を実施する必要性がある.このためには,血中P4値の測定によって排卵日を推定することが不可欠となる.
 筆者の血中P4値の測定による,犬の人工授精適期の判定の臨床的な方法を紹介すると以下の通りである.
 犬の排卵は,発情出血から平均12日である.このため第1回目のP4測定のための採血を,発情出血から8日または10日に実施し,EIA法で測定した血中P4値が2ng/ml以上になるまで隔日に実施する.例えば,出血から12日の血中P4値が1.85ng/ml,14日が6.85ng/
mlと,血中P4値が2ng/mlを超えた日の前日,すなわち13日を排卵日と推定し,排卵後4日(出血から17日)を人工授精適期としている.血中ホルモン値は,測定方法によって,多少数値に差が認められるため,この点を考慮する必要性がある.
 筆者は,血中P4値の測定を隔日に実施しているため,真の交配適期である3〜5日の中間を取って,排卵後4日を人工授精日としている.
 血中P4値の測定は,検査センターに依頼した場合には,数日を要するため,測定時間を短縮するように交渉するか,自らEIA法,または簡易ホルモン測定機を使用する必要がある.

 4 犬の精液性状
 犬の採精は,他の動物と異なり人工腟を必要とせず,用手法で容易に採取でき,また,ガラスロートとプラスチック製尖底管の組み合わせによって,精液を3つに分画して採取することが可能である.
 すなわち,ペニスが勃起する前に,包皮を亀頭球の上まで素早くめくり上げ,亀頭球上部をリズミカルに圧して完全に勃起させる.一方の手には,ガラスロートに尖底試験管をセットしたものを用意して採精する.そして,それぞれの分画採精は,助手に尖底試験管を取り替えてもらうことで行う.
 第1フラクション(第1F)は,ペニスが完全に勃起する前の約30秒くらいで射精する.そして完全勃起と同時に精子を含む白濁した第2フラクション(第2F)が,約30秒で射精し,その後は拍動に応じて第3フラクション(第3F)が10分前後射出される.ビーグル犬では,第1及び第2Fは各々1ml前後,第3Fが10ml前後である.第1及び第3Fは,犬の唯一の副生殖腺である前立腺からで,第2Fは精巣及び精巣上体からのもので,総精子数は3〜4億である.
 採精のコツは,包皮をすばやくめくり上げることで,ペニスが勃起した後では亀頭球が大きいため包皮をめくり上げることができない.また,包皮をかぶったまま勃起しても射精が完全でなく,充分な精子数を得ることができない.射精を十分に行わせるためには,発情雌犬を近付けて行うか,発情出血をガーゼに浸して,これを雄犬の鼻先に近づけて刺激するとよい.


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