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麻薬指定後のケタミン:ケタミンの特徴と犬と猫において
ケタミンの使用を回避する方法
1) 獣医麻酔外科学会麻酔 ・ 鎮痛専門部会 2) 酪農学園大学獣医学部助教授 3) 東京大学大学院農学生命科学研究科教授 |
今井彩子 | 山下和人 | 西村亮平 | ||
は じ め に これまで獣医学領域で一般的に用いられてきたケタミンが,平成19年1月1日より麻薬指定となり,獣医療に従事する臨床獣医師は,麻薬施用者免許を取得してケタミンの使用を継続するか,あるいはケタミンを使用しない鎮静/全身麻酔/周術期疼痛管理に転換するかの岐路に立たされている.ケタミンは,その特徴として,1)ほかの麻酔薬に比較して安全域が広い,2)多様な動物種に使用可能,3)筋肉内投与,静脈内投与,皮下投与,経口投与を含む多様な投与経路が使用可能,4)1回の投与で確実な鎮静化・不動化が可能,5)ケタミンによる鎮静および全身麻酔中の循環抑制・呼吸抑制がほかの麻酔薬と比較して少ないことがあげられる.これらの特徴はそのままケタミンが,獣医療で広く使用されている理由となる. 前述のようにわれわれ獣医師は,ケタミンが麻薬指定された後,麻薬として現在と同じ目的で使用するか,あるいはケタミンを使わない方法を採用するか選択しなくてはならない.前者を選択するのであれば,麻薬を使用するための免許を取得し,その管理・取り扱いを厳重に行わなければならない.しかしその反面,ケタミンの持つ特徴を今まで通り臨床の現場で生かすことができるし,さらに新しい概念の導入によりその使用範囲を広げることもできる.同時にモルヒネ,フェンタニルなどの麻薬性の強力な鎮痛薬を用いることができるようになるというメリットもあり,麻酔や鎮痛の幅が非常に広くなる.一方後者を選択する場合には,これまでケタミンを使っていたさまざまな用途ごとに,これに代わる薬剤を選択していかなければならない.残念ながらケタミンにそのまま代替となる薬剤は存在しない.筋肉内(皮下)投与が現実的に可能な麻酔薬が他にはないことからも,このことは容易に理解できる. 本稿では,まずケタミンの特徴について再確認しつつ,ケタミンを疼痛管理の分野でも用いることのメリットについて述べる.次にケタミンを用いない鎮静,麻酔,鎮痛をどのように行っていけばよいかを考えてみる.
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I ケ タ ミ ン 1 ケタミンの作用 ケタミンは麻酔前鎮痛薬として開発されたフェンサイクリジンを親物質として,1963年に合成された鎮静・全身麻酔薬である.投与により大脳皮質は抑制を受ける一方,大脳辺縁系は賦活化されることからケタミンは解離性麻酔薬と呼ばれる[1].臨床的にはケタミン投与により用量依存性に意識の消失が起こり,動物は不動化され,全身麻酔状態となる.この不動化と全身麻酔作用は,ケタミンの一回の筋肉内投与で得られることができ,多くの動物種におけるケタミン使用の主流となっている.ケタミンによる麻酔は特徴的で,動物は目を大きく見開いたまま(角膜が乾燥するため人工涙液などによる保護が必要:特に猫)カタレプシー様に意識を消失し,周囲環境に対して無反応となる.また無目的な筋肉運動が認められるが,これは,麻酔が浅くなったことを意味するわけではない(このような動きがあるため,麻酔深度の判定が難しい).さらに,筋弛緩作用がないあるいはほとんどないことなどから,通常はトランキライザーあるいは鎮静薬と組み合わせて用いられる.また屈曲反射,対光反射,角膜反射,喉頭,咽頭反射は高用量を投与しないと消失しない.ケタミンを単独で投与した場合,麻酔からの覚醒はあまり円滑ではなく,興奮したり,鳴いたり,暴れたりすることが多いが,トランキライザーや鎮静薬を併用することにより円滑にすることができる.ケタミンの安全性は比較的高く,LD50/ED50は,ペントバルビタールの5倍である.また繰り返し投与しても,耐性や合併症を引き起こすことは少ない. |
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2 ケタミンの作用機序と鎮痛 近年,分子生物学および神経生理学の発展によりケタミンの分子レベルでの作用機序の解明が進み,その主な作用がN-MethylhDhAspatate(NMDA)受容体の阻害であることが分かってきた[2].NMDA受容体は興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸の受容体の一種である.中枢神経系の興奮性神経伝達の大部分はグルタミン酸によって行われている.NMDA受容体はいわゆるリガンド依存性イオンチャネルであり,リガンドであるグルタミン酸を受容した際チャネルを開き,カルシウムイオンとナトリウムイオンを流入させる.カルシウムイオンは細胞内でさまざまな反応を引き起こす.ただしイオンの流入が起こるのは,イオンチャネル内に栓をしているマグネシウムイオンが外れたときである.マグネシウムイオンが外れるのは,興奮性伝達が繰り返され,神経細胞が強く脱分極したときに限られる.ちなみにこのような脱分極からカルシウムイオン流入にいたる現象は,海馬の長期増強(Long-term potentiation)と呼ばれるシナプス可塑性の引き金として知られている.シナプス可塑性は学習と記憶を支える生物学的メカニズムとして注目されている現象である.ケタミンは中枢神経系のシナプス後膜にあるNMDA受容体を阻害し,興奮性神経伝達をブロックする.このブロックによって興奮性の神経伝達が減少する.ケタミンよりも選択的にNMDA受容体を阻害する薬剤にMK-801があるが,この薬剤がケタミンに類似した麻酔作用を引き起こし[3],イソフルレンおよびハロセンの麻酔に必要な濃度を減少させる[4]という事実から,ケタミンによるNMDA受容体の阻害メカニズムがケタミンの鎮静・麻酔作用に関与していることが示唆されている. ケタミンの作用メカニズムの研究が進むにつれ,ケタミンの有する鎮痛作用がクローズアップされてきた.麻酔用量以下のケタミンが鎮痛作用を有することは,ケタミンが臨床応用された頃から報告されており[4],またその鎮痛作用は用量依存性であることが実験動物での研究から明らかになっている[5].ケタミン投与により,末梢からの侵害刺激が伝達される脊髄後角第V層の細胞活動[6]や第V層からの入力を受ける中枢の核の細胞活動が抑制される[7]ことから,ケタミンの鎮痛作用が脳幹および脊髄レベルで直接おこっていることが示唆されている.また侵害受容神経線維終末からは神経伝達物質としてグルタミン酸が放出されるため,ケタミンの鎮痛作用には上述のNMDA受容体阻害作用も大きく関与していることが示唆されている.たとえば組織の炎症などで痛み刺激が持続すると,次々と脊髄へ送られてくる侵害受容性インパルスが脱分極の加重およびNMDA受容体を介した反応を起こして脊髄後角ニューロンの反応性を進行的に増強する.この現象はwind-upと呼ばれ,痛覚過敏やアロディニアの発生に関与する.ケタミンはこの反応を抑制することが報告されている[8].また末梢から繰り返しの侵害刺激の入力があった場合には,wind-upがなくても侵害受容ニューロンの反応性が亢進する現象がみられる.この現象は中枢性痛覚過敏(central sensitization)と呼ばれ,NMDA受容体とグルタミン酸が深く関わっていると考えられている[9].この侵害受容ニューロンの反応性亢進は痛み刺激がなくなっても痛覚過敏状態として残存し,慢性痛に移行する可能性も示唆されている.Taddio[10]らは,無麻酔で割礼を受けた新生児と局所麻酔を行った後に割礼を受けた児,そして割礼を受けなかった児の初めてのワクチンに対する反応を調査した結果,割礼を受けた新生児の方が受けなかった児よりもワクチン接種時の痛みを表す指標(表情による表現,泣く時間,視覚的アナログスケール値)の値が有意に大きいことを明らかにした.また割礼時に局所麻酔を受けていた児では,これらの痛みの指標は無麻酔で受けた児のものより低かった.この新生児期の割礼による痛み刺激が関与する痛覚過敏の形成には,中枢性痛覚過敏が関わっていることが示唆されている.また四肢を切断した後に起こる幻肢痛の形成に関しても中枢性痛覚過敏そしてwind-upが関わっていることが示唆されている.Bach[2]らは痛みを伴う脱疽があり四肢切断を受けた患者に対して,術前から十分な鎮痛が行われていた群とそうでない群の術後の幻肢痛の発現を比較したところ,術前に鎮痛が行われていた群では手術6カ月後の幻肢痛の訴えは皆無であったが,術前に鎮痛が行われていなかった群では術後1年たっても幻肢痛が残った患者がいたことを明らかにした.これらの報告から,術前の痛みによりwind-upおよび中枢性痛覚過敏が起こり術後の痛覚過敏や幻肢痛の発生要因となること,そしてwind-upと中枢性痛覚過敏はどちらもグルタミン酸とNMDA受容体による反応が関与している現象であるため,痛み刺激が起こる前からケタミンを使用してNMDA受容体を介する反応を十分にブロックすることで術後の痛覚過敏や慢性痛の発生を防止できることが示唆される. 一方術中の痛みに関しては,ケタミンは体性痛に対しては強力な鎮痛作用を示すが,内臓痛はあまり抑えないようである.このため腹腔内,胸腔内の手術を行う場合には,内臓痛を抑える薬剤を併用する必要がある. |