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現 代 装 蹄 考
─ その実状と将来 ─
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1 装蹄の発達小史 馬は古来,他の家畜と異なり,その優れた運動能力を以て人間社会に貢献してきた.必然的に蹄の摩滅への対応が不可欠となり,蹄の接地部分に金属のプレートを取り付ける技術,装蹄が開発された.それは,一説には2500年前の欧州で始まったと言われているが,諸説があって,詳しい起源は不明である.初期の装蹄は運を天に任せた技術であったが,中世から近世にかけての欧州で,馬の獣医学の発展に後押しされ,装蹄も単なる技(ワザ)の世界から抜けだし,科学的根拠に基づく合理的な技術として,その基盤が時代とともに整備されてきた.装蹄が日本に正式に導入されたのは,明治6年.フランスから装蹄教官を招いたのが,その嚆矢だという.さらに明治23年には,ドイツから専門家を招聘して,ドイツ式への移行が進められた.その後も,旧陸軍が主導的役割を果たして,フランスやドイツの技術を基礎に,日本独自の発想や工夫を取り込み,先の世界大戦中に,軍馬を対象としたいわゆる日本式装蹄が定着した.戦後は,高度経済成長に支えられ,競馬人気が高まるなか,競馬先進国である欧米から新たに競走馬用装蹄が導入され,実践的な技術は様変わりした.しかし,軍馬用に開発された伝統的な装蹄技術は,日本の装蹄教育の基本技術として,あるいはまた乗馬用装蹄として,進化しつつも現在に受け継がれている. |
2 装蹄師の資格制度 日本に上陸した装蹄は,当時の富国強兵政策を背景に,旧陸軍主導により馬の獣医学とあわせて全国的に広まっていった.明治8年には兵学校において装蹄技術を習得した者に卒業免状を与え,さらに明治23年,蹄鉄工免許規則(法律第31号)が公布され,当時の農商務省が管轄する国家資格として資格制度が整備された.その後,昭和45年に装蹄師法が廃止されるまで,技術論の変遷や法律上の取り扱いにおける紆余曲折を重ねながら,装蹄師の資格は国家資格制度によって付与されてきたのである.先の大戦当時には,130万頭以上と言われていた馬の飼養頭数も,戦後のモータリーゼーションの余波を受けて10万頭余まで激減し,当時は8,000人を越えると言われた装蹄師の総数も1,000人を割り込んだことを思えば,国家資格制度が終焉を迎えたのも仕方がない時代の趨勢であった. 装蹄師法の廃止に伴い,装蹄の技術水準を維持するため,当時の農林省次官通達により,社団法人日本装蹄師会に装蹄師の認定資格制度の運営が委ねられた.日本装蹄師会では,これを受けて認定規程を施行し,国家資格時代の基本的な理念を踏襲しつつ,さらに認定資格を2級,1級,指導級の3段階のグレードに区分して,その養成教育と資格の認定に努め,現在にいたっている. |
3 装蹄師の教育制度 明治初頭の兵学校での教育に始まる装蹄教育は,東京都駒場の陸軍獣医学校に引き継がれると同時に,国家資格時代には,全国各地の農学校や獣医系大学の別科での養成教育や,あるいは獣医師教育のカリキュラムの一環として実施されてきた.装蹄師法の廃止を契機に,装蹄師の養成教育は,日本装蹄師会が開催する短期と長期の2種類の講習会と,陸軍獣医学校を前身とする駒場学園高等学校・装蹄畜産科での教育に絞られ,さらに平成7年には,駒場学園での装蹄教育に終止符が打たれたのを契機に,栃木県宇都宮市のJRA競走馬総合研究所敷地内に日本装蹄師会・装蹄教育センターを立ち上げ,そこでの教育に一本化された. 装蹄教育センターでの装蹄師認定講習会は,4月初旬から翌3月までの全寮制1年教育.教科目は,学科370時間以上,実習940時間以上,総計1310時間以上.募集人員はわずか16名である.そのような少人数制の教育体制に加え,JRA競走馬総合研究所の敷地内という恵まれた立地は,最先端の科学的な知識に裏打ちされた,きめの細かい装蹄教育の実践を可能としている.本年3月には11期生16名を世に送り出し,装蹄教育センターでの養成者数は,すでに175名(1名が都合により途中退校)を数えた.現時点での専業認定装蹄師の総数約600名のほぼ25%を,装蹄教育センターを巣立った者が占めており,確実に業界の基盤を構築しつつある. 認定講習会のすべてのカリキュラムを修了して認定試験に合格した者には,2級認定装蹄師の資格が与えられる.2級資格取得後5年を経過した者は,昇級研修会を受講して,昇級試験に合格すれば1級資格が,さらに1級取得後10年を経過した時点で昇級研修会を受講し,昇級試験に合格すれば指導級資格が与えられる.このグレード制は,装蹄師の生涯教育プログラムとしても大きな役割を果たしている.今後は,日本獣医師会が展開中のポイント制を活用した獣医師生涯研修事業を参考に,装蹄技術のさらなる向上と充実策を模索する必要も感じている. |
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