会報タイトル画像


解説・報告

6 広島大学水畜産学部付属農場
 私が勤務していた広島大学水畜産学部(現生物生産学部)の付属農場は,それまでの西条町八本松(現東広島市)から移転して来たもので,1963年,正戸山の南に広がる水田を埋め立てて造成された.この水田は歴史にも出てくる,班田収授法時代から耕作されて来た由緒ある水田20町歩である.なぜこのような水田が容易に取得できたのかというと,ここが片山の水田地帯に隣接していたので耕作者は水田作業を嫌っており,手放す農家が多かったためであった.
 農場の一角には教官用の公務員宿舎も建てられ,私が入居していた福山市大門町にあった教官宿舎も移転することになった.梅雨どきの6月,私は現地をみるために初めて造成中の農場を訪れた.福塩線の横尾駅を過ぎてから線路に沿って走るバスの窓から見えた風景は,一面に広がる水没した水田と,その中に浮かんでいるように見える片山であった.バス道路も水であふれていた.その情景を見てただちに思い浮かべたのは瘴癘(しょうれい)(マラリア等の風土病)の地,次いでミヤズマ説(瘴気(しょうき)説,Miasma theory)であった.このような低湿地帯では悪疫が発生するのも当然であり,片山病が流行していたのも無理はないという心境で一杯であった.宿舎は十分に盛り土をしてから建ててもらわなければならないと,その時は真剣に考えた.
 新しい農場の発足に当たり,農場長を委員長とする片山病対策委員会が設けられ,家畜衛生学を担当していた私も加わった.用水路の整備,薬剤散布,人畜に対する春秋2回の集団検診などを取り決めた第1回目(1964年7月)の議事録,農場職員に配布するための片山病予防研究所から出されていた予防解説のパンフレットなど,当時の資料がまだ,手元に残っている.
 片山周辺の水田は高屋川と農場の横を流れる加茂川の合流地点に近く,地形的に最も低い湿地帯であった.農場内の宿舎から,さらに10年後には道上駅近くの自宅から学部に通勤していた頃は毎日,片山を横目で眺めながら通っていた.バス道路と福塩線の交差する地点,高屋川に架かる鶴橋のたもとの家では梅雨どきになると,毎年大雨で浸水していた.現在は高屋川の浚渫,堤防が完備し,この一番の低湿地帯に揚水ポンプが設置されたため,浸水の恐れはなくなった(写真3).
 広島県における片山病終息の成果は,中間宿主である片山貝の撲滅によるものであるが,それには用水路に散布した殺貝剤などの他に,次々と水田を埋め立てて造成された新しい住宅地からの家庭排水の流入など,近年の環境変化による影響も大きいものと考えている.

写真3
写真3 住宅の立ち並ぶ現在の片山.左が高屋川,右手前はポンプ場

 

7 片山病対策は用水路の整備から
 私の住んでいる町内会では春秋の年2回,河川の清掃の他に,田圃の用水路の泥渫いや草刈りも行っている.用水路は昔からの自然のものとコンクリート溝の2種類があり,後者の方の清掃が簡単,楽であった.
 ところで,私が広島大学に転勤した当時,そのことを知った鳥取大学農学部で家畜病理学を担当していたN助教授から,学生実習で学生に見せたいので,是非,片山貝を送って欲しいとの手紙を受け取った.
 私は学生時代,家畜寄生虫学の試験の時に先輩から,「日本住血吸虫の学名を記せ」というのは毎年,必ず出る山の問題と教えられ,Schistosoma japonicum という学名を覚えて今でも確りと記憶している.しかし,講義で話されていたであろう片山病にまつわる話のことなどはすっかり忘れていた.
 手紙を受け取って,初めて赴任先が日本住血吸虫病の流行地であることを知って教科書を読み返し,片山貝を入手するためにあちこちに問い合わせた.その結果,そんな貝などはとっくの昔に無くなりましたよとの返事であり,遂に片山貝を送る約束は果たせなかった.
 その頃,田圃の用水路は片山貝の生息阻止に効果があるとして,U字型3面のコンクリート化が,国や県の公費負担で進められており,水路の整備は農家にとっても望んでいるものだった.補助金申請のためには片山貝がまだ,生息しているとの理由が必要である.しかし,片山貝が見つからなくなってしまったために,関係者は申請に苦慮しているという話であった.
 町内会の行事に何で田圃の水路の草刈りまでしなければならないのか,一方,コンクリート溝は底の泥渫いがやりやすいと思いつつ毎年,行事に参加していた.
 今に続く住民参加の田圃の水路の清掃は,長年苦しんできた片山病対策の一環,名残だったのである.

 

8 あ と が き
 2004年9月,「日本住血吸虫発見から100年」と題する講演会が神辺町図書館で,佐々木龍三郎館長の司会で行われた.演者は吉田医院のあった中津原で生まれて片山病に感染したが,現在は特効薬の「プラジカンテル」によって完全に健康となり,活躍中の高橋孝一氏であった.
 旧吉田医院の前には,吉田龍蔵医師の功績を称える頌徳の碑と,藤浪 鑑教授の研究を称える功徳の碑が1926年,広島県地方病撲滅組合によって建立されている.この2つの記念碑の前で11月,佐々木館長の提案で関係者をはじめ,片山地区に住んでいる人々も参加して碑前祭が行われた.
 また,井原市では桂田教授が日本住血吸虫の感染経路を調べるための動物実験を行った地元として,実験地の記念碑を井原市医師会館の前に,100周年を迎えた2004年5月26日に建立している.
 片山から3km足らず,片山が望見できるこの地域に住み着いてもう40年以上になる.片山病が解明されてから100年,各地でいろいろな集会が催されている中で,片山病に対する地元の取り組みと歴史を紹介した.

 資料の1部は神辺町民生部福祉保健課所蔵の資料を参考とした.ここに記して謝意を表する.
 なお,平成18年3月1日から深安郡神辺町は,合併によって福山市神辺町となった.

 

引 用 文 献
[1] 中山正真:漢方医・藤井好直 片山病先覚者の人と業績,51,佐々木印刷(1981)
[2] 阪田泰正:広島県の医師群像(其の4)漆山と片山病,1-27,安芸津記念病院郷土資料室(1988)
[3] 広島県環境保健部:日本住血吸虫病流行終息報告書,1-21(1991)
[4] 山梨地方病撲滅協力会:地方病とのたたかい,330(1977)
[5] 片淵秀雄:佐賀県の日本住血吸虫病撲滅について,58(1959)
[6] 石井 明:日本住血吸虫発見 100年を迎えて,その他6氏によるシンポジウム記録:医学のあゆみ,208,73-98(2004)
[7] 石井 明:ミクロスコピア,21,19-25(2004)
[8] Ishii A, Fukuma T, Minai M : Meguro Parasitol. Museum, Tokyo, 8, 89-109 (2003)
[9] 小田晧二:桂田富士郎―日本住血吸虫発見100年―,日本醫事新報,No. 4176,39-41;No. 4177,45-47(2004)

[10]

佐々 学:風土病との闘い,141-154,岩波書店,東京(1963)
[11] 吉村裕之:病原体を追った人々―その栄光と残照―,78-101,北国出版社,金沢(1988)
[12] 小林照幸:死の貝,238,文藝春秋,東京(1998)
 
 その他の文献は省略,詳しくは資料6〜8,12の文献を参照されたい.



† 連絡責任者: 橋本秀夫
〒720-2126 福山市神辺町徳田1829-5
TEL ・FAX 084-963-0606


戻る