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論 説

2 新たな食品安全行政の展開
 食品安全基本法に基づき平成15年7月,食品安全委員会が設立された.リスク管理を行う行政機関(厚生労働省,農林水産省等)から独立して,科学的な食品健康影響評価(リスク評価)を客観的かつ中立公正に行う機関として内閣府に設置された.従来から食品安全行政を所掌していた厚生労働省,農林水産省は,リスク管理を行う機関と位置づけられた.
 厚生労働省では,食品保健部は食品安全部に改称される等組織改編が行われたほか,食品衛生法が一部改正され,食品の安全性の確保のための監視・検査体制の強化が行われた.食品衛生法の目的として,食品の安全性を確保することにより国民の健康の保護を図ることが明記され,食品衛生の確保に当たっての国,地方自治体,食品事業者の責務が明確化された.また,農薬等の残留規制の強化,サプリメント等特殊な方法により摂取される食品等の暫定的な流通禁止措置の導入,監視指導計画の策定等による監視・検査体制の強化,総合衛生管理製造過程(HACCP)承認への更新制の導入等が行われた.また,健康増進法が一部改正され,健康の保持増進の効果等についての虚偽または誇大な広告等の表示が禁止された.
 農林水産省関係では,農林水産省設置法が改正され,生産段階における食品安全については農林水産省の所管であることが明確化された.食糧庁が廃止され,消費安全局が設置される等それまでの生産者重視から消費者へ軸足を移した行政への転換が行われた.食品の安全性の確保のための関係法律(肥料取締法,薬事法,農薬取締法,家畜伝染病予防法)が整備されるとともに,飼料の安全性の確保及び品質の改善に関する法律(飼料安全法),牛の個体識別のため情報の管理及び伝達に関する特別措置法等が改正され,生産段階における食品安全の取り組みが強化された.また,農林水産省は,新しい食品安全行政にとりくむための指針として「食の安全・安心のための政策大綱」を定めた.
 地方自治体においても,これらの法律に基づき食品安全行政の強化が行われている.食品衛生法に基づき都道府県では地域の食品の生産・流通状況を踏まえた「食品衛生監視指導計画」が策定され,同計画に基づき,営業者等に対するHACCPの概念の普及啓発,大量調理施設マニュアルに基づいた衛生管理の推進等のための監視指導が行われている.都道府県では,食品の生産,流通,消費等各段階で担当部署が異なることが多く,部署間の連携強化のため新たな組織が創設されたり,部局間で定期的な連絡会議が開催されたりしている.
 
3 リスク分析とフードチェーン・アプローチ
 リスクとは,食品中にハザード(健康に悪影響をもたらす原因となる物質)が存在する結果として生じる健康への悪影響が起きる確率とその影響度である.食品由来の健康被害を最小化するために,国際食品規格委員会(コーデックス)が検討を行った結果,現在,リスク分析という手続きを用いてリスクを最小限にする手法の有効性が認められ,広く加盟国で採用されつつある.
 リスク分析は,リスク評価,リスク管理及びリスクコミュニケーションの3要素からなり,コーデックスは,リスク分析を「ある集団が食品の摂取によって有害事象にさらされる可能性がある場合に,その状況をコントロールするプロセスであり,科学的なリスク評価をするだけにとどまらず,最終的なリスク管理と,情報交換やチェックシステムとしてのリスクコミュニケーションが一体として有効に働く枠組みを構築すること」としている.
 リスク評価とは,「ハザードに暴露されることによりおきる可能性がある健康への有害影響を科学的に評価することであり,ハザード同定,ハザードの特性評価,暴露評価,リスク特性評価の4ステップからなる.リスクを定性的及び定量的に解析する一方,評価に付随する不確実性も明らかにすること」とされている.わが国では,内閣府食品安全委員会が担当している.
 リスク管理は,「リスク評価の結果に基づいて,リスクの受容,最小化,削減のために政策の選択肢を検討し,適切な選択肢の実施を実行するプロセス」とされ,わが国では,厚生労働省や農林水産省が担当している.
リスク分析の導入の利点は,[1]事故の未然防止体制の強化,[2]科学と行政の分離,[3]政策決定過程の透明化,[4]消費者への正確な情報提供,[5]食品安全規制の国際的整合性の確保である.
 食品安全基本法の基本理念に,「食品供給行程の各段階における食品の安全性確保のために必要な措置が適切に講じられること」とあるように,食品のリスク分析においては,常にフードチェーン・アプローチを意識する必要がある.リスク評価においても,フードチェーンにおけるハザードの消長を科学的に解析すべきである.リスク管理においても,リスク評価に基づきフードチェーンの各段階での効率的・有効なリスク低減措置がとられるべきである.また,リスクコミュニケーションにおいても,フードチェーンの各段階に携わる者相互間の理解がなければ,効率的なリスク管理は困難となろう.
 
4 新たな食品安全行政における獣医師の役割
 さて,以上のように展開されている新たな食品安全行政において,獣医師はどのような役割を果たすべきか.
 食品安全行政は,従来から食品衛生法,と畜場法,食鳥処理法等に基づき,おもに厚生労働省と地方自治体により行われてきた.厚生労働省は,食品安全行政の立案,計画を策定するほか,検疫所を有し輸入食品の監視,検査を担当し,地方自治体はこれらの法律に基づき食品衛生監視員,と畜検査員,食鳥検査員を配置して,実際の加工,流通分野における現場の監視・指導を担当している.一方,生産段階における食品安全については,家畜伝染病予防法,飼料安全法,農薬取締法,肥料取締法等に基づき,農林水産省が所管し,都道府県は家畜防疫員,薬事監視員等を配置し,生産現場や生産資材の安全性の監視・指導を行ってきた.
 これらの食品安全行政は,医師,獣医師,薬剤師その他各種の職種の者が担っている.その中でも獣医師が占める割合は大きい.都道府県知事等が指定することとされている食品衛生監視員,家畜防疫員,と畜検査員,食鳥検査員のうち後2者については,獣医師の資格がなければなれないとされている.家畜防疫員については大部分が獣医師であり,食品衛生監視員については半分近くが獣医師である.このように食品安全行政に携わる獣医師は数の上では多く,獣医師はこの分野で一定の役割を果たしている.しかし,現状では,これらの食品安全行政に携わる獣医師のほとんどは,畜産物の生産,食品の加工・流通過程における限られた範囲でリスク管理を担うにとどまっている.
 獣医師の資格を必要とすると畜検査員,食鳥検査員や獣医師が大部分を占める家畜防疫員は,家畜の疾病の診断技術,予防技術,病理学等獣医学の知識を必要としている.また,農業,医学の両方の分野の基礎知識を習得していることも,獣医師が行政,民間を含め食品安全のいろいろな分野に従事している所以であろう.しかし,このような伝統的な獣医学の知識だけで,大きく変化しつつある食品のリスク管理に応えることができるであろうか.残念ながら,現状では,獣医師を含む食品安全行政に携わる職種のいずれもリスク分析とフードチェーン・アプローチの導入の新しい動きに対応できるだけの十分な知識・技術を必ずしも持ちえていない.
 リスク分析とフードチェーン・アプローチには,農場から食卓までの食品供給の知識に加え,疫学,統計学,モデリングといった分野の知識が必要であり,現在食品安全行政に従事している者は,これらの分野の専門家との協力・連携を進めるとともに,自らこれらの知識,技術の習得を通じた能力の向上,新たなリスク管理方法への適応力の向上が必要となろう.
 諸外国における食品安全分野での獣医師の役割をみると,ヨーロッパ諸国のように食品が人の口に入るまでのリスク管理については,獣医師が中心的役割を果たしている国が少なくない.食料生産の中心を占める畜産と医学の両方の知識を有する獣医師が主導的に担当してきた歴史と,社会の期待に応えるために獣医公衆衛生学や疫学等の知識・技術を習得してきたことがその背景にある.
 今後展開される食品安全行政において,わが国の獣医師がヨーロッパ諸国のように中心的役割を果たせるだろうか.食品安全行政における現在の獣医師の役割は,長い歴史の中で定着したものであり,これを変えるには多数の課題(大学教育や卒後教育の充実等)があり,短期間で変えることは困難であろう.しかし,獣医師が素養的に他の職種より有利な立場にあるのは事実だ.現在の食品安全行政の展開は,われわれ獣医師にとってチャレンジであるとともにチャンスでもある.

 

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† 連絡責任者: 杉浦勝明(内閣府食品安全委員会事務局情報・緊急時対応課)
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