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牧 野 壮 一(帯広畜産大学 獣医学科 助教授) |
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炭疽菌(Bacillus anthracis)が原因で起こる炭疽(anthrax)は,古くからヒトにも感染し重篤な症状を起こす人畜共通感染症(Zoonosis)であるが,元来は草食動物を中心に起こる.炭疽菌は人類史上最初に発見された病原細菌である.19世紀の中頃,羊や牛に炭疽の流行が毎年のように繰り返されていたヨーロッパで,2人のドイツ人(Pollender;1885,Brauell;1857)とフランス人(Delafond;1856)は,死獣の血液中に棒状微小体を確認した.その後,炭疽菌を病原細菌第1号として不動のものとしたのは,固形培地での本菌の純培養に成功したKoch(1876)である.このように炭疽菌研究は近代微生物の基礎を築き,その発展に大きく貢献した. しかし,昨年10月,アメリカの同時多発テロに引き続き起こった炭疽菌によるテロ事件は世界中を震撼させた.「貧者の核兵器」として80年も前から恐れられてきた生物兵器,それが現実社会に新たな恐怖を与えてしまったのである.生物兵器として使用される可能性が高いものとして,炭疽菌は天然痘とともにとりわけ注意を払われてきた微生物である. |
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炭疽菌とは |
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炭疽菌はBacillus属のグラム陽性通性嫌気性桿菌で,破傷風菌やボツリヌス菌と同じ土壌菌の一種である.Bacillus属の中で,日和見感染を起こすものとしてB.
subtilis,B. macerans,B. shaericusなどが知られているが,人間に病原性を有する菌種は細菌性伝染病の中で最も毒力が強いものの一つであるB. anthracisと食中毒を起こすB.
cereusのみである.炭疽菌は大きさが1.0〜1.2×3〜5μmの大桿菌で,人工培地上では竹節状の長い連鎖となる.鞭毛を欠き,血液寒天上では溶血を示さない.寒天培地上ではラフな集落を形成し,その辺縁はちぢれ毛(メデゥサの首)状となるが,重曹添加の固型培地を用いると5〜20%のCO2存在下で莢膜形成を伴うムコイド状の光沢のある集落となる.一方,生体内では菌体表層に莢膜形成を伴う単独もしくは短い連鎖状であり,通常栄養形(vegetative
form)として存在する.しかし,栄養分が不足し増殖や分裂が起こりにくくなる環境下では,卵円形の芽胞体(spore)となる.芽胞体は高温や低温,pH,消毒剤,薬剤,乾燥,紫外線などに抵抗性が強く,環境中で増殖せずに長期間生残するが,栄養形は脆く死にやすい. |
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炭疽菌の感染サイクル |
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炭疽菌の感染サイクルの中心である芽胞体が生体内に侵入すると,マクロファージ内に速やかに取り込まれ発芽(germination)する.発芽には適当な温度やpH, 湿度,栄養源が必要である.発芽と同時に炭疽菌は増殖し,毒素によるマクロファージ融解が起き,菌体は血流へと放出される.その後,病原因子の発現を伴いながら炭疽菌は爆発的に増殖し,産生毒素によるサイトカイン産生が誘導され,最終的に生体はショックにより死に至る.感染した動物の血液,体液,死体などが土壌や体表を汚染し,空気に触れると,栄養形はふたたび芽胞体に戻り,野外に放出され,地表を汚染する.炭疽菌はこのような感染サイクルを繰り返し,炭疽汚染地帯を作る. |
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ヒトの炭疽 |
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ヒトは炭疽に対して比較的抵抗力があるが,症状は感染経路や種々の条件によって異なっている.ヒトの炭疽は感染経路から皮膚炭疽,腸炭疽,肺炭疽の3種類に分類される.皮膚炭疽は傷口等から皮下に芽胞体が侵入し発症する.昆虫に咬まれて感染することもまれにある.肺炭疽は埃や風によって芽胞体が気道感染し発症する.腸炭疽は,炭疽菌に汚染された肉や水を介して経口感染により発症する.MIDは肺炭疽の場合8,000〜20,000程度,腸炭疽の場合1,000個程度であるといわれている. 皮膚炭疽:ヒトの炭疽の自然感染例の95%以上が皮膚炭疽である.傷口などから菌体が侵入すると,2〜3日後にニキビ様の小さな丘疹が出現し,その3〜4日後にはリング状の水疱ができ,悪性膿胞が出現する.これは冠状の黒色調の痂皮,炎症性の浮腫を取り囲むようにしてあり,無痛性で化膿しない.この黒色への変化が「炭疽」の語源である.その中は莢膜を形成した菌体が検出される.皮膚の痛みは伴わないが,痛みを伴う局所リンパ節炎を併発することもある.さらに5〜7日で特徴的なかさぶた(痂)ができ,治療をしないと浮腫は拡がり,重症ではショック死する.火傷の初期病変,類丹毒,潰瘍,梅毒性下疳などとの類症鑑別が必要である.皮膚炭疽は比較的致死率は低いが,治療をしない時は10〜20%,治療しても1%位が死の転帰をとるとされている. 腸炭疽:経口感染により起こる腸炭疽は一般的に腸管に病変を起こすが,まれに咽頭部にも病変を起こすことがある.腸管感染では吐き気,嘔吐,腹痛,吐血,血便,そして腹水の貯留などが起き,治療をしないとショックを起こし死亡することもある.食中毒や血便を伴う腸管感染症との類症鑑別が重要である.後者の場合は,咽頭炎,嚥下障害,発熱,頸部のリンパ節炎が起き,ショックにより死亡する.治療しても約50%の死亡率である.連鎖球菌による咽頭炎や咽頭の腫瘍などとの臨床鑑別が重要である.腸炭疽の発生は通常まれであるが,衛生環境や教育の不備な国で起こっている. 肺炭疽:初期症状はインフルエンザ様で,軽度な発熱,疲労感,倦怠感が数日続き,頭痛,筋肉痛,悪寒,発熱,そして胸部の軽度の疼痛が起きる.重症では,突然の呼吸困難,チアノーゼ,昏睡を伴う失見当識が起こる.治療が成功しない場合は24時間以内に死亡する. また,炭疽菌性髄膜炎が上記3種類の炭疽に引き続いて起こることがあるが,まれに初感染もある.治療してもほぼ100%の死亡率となる. |
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炭疽の疫学 |
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世界各国で家畜および野生動物において地方病的発生がみられる.一方,ヒトの炭疽の自然発生も世界各地で発生している.一般的に炭疽は動物を扱う職業のヒトに発生が多いとされているが,獣疫の管理が不十分な国で多発する.わが国においては,ヒトの炭疽の発生はほとんど見られないが,1965年,斃死した炭疽牛に由来する集団発生例があった.このとき20名にもおよぶ皮膚炭疽(11名)および腸炭疽(9名)の患者が発生し,公衆衛生上大きな問題となった.炭疽は食肉検査所の検査でもっとも注意がはらわれている疾病の一つであり,食肉,牛乳などに加工処理される前に発見処理されることが大切である.その後,1992年と1994年にヒトで皮膚炭疽が2例づつ報告されている.外国では日常的に発生するが,特に中央・南アメリカ,アフリカ,アジアでは深刻である.たとえば韓国では,2000年に汚染牛肉による腸炭疽による死者が出ている. |
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炭疽菌の病原因子 |
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炭疽菌の病原因子としては,毒素産生能と莢膜形成能の2つが知られている.毒素産生能は3種類の異なる蛋白,防御抗原(protective antigen, PA;83KDa),致死因子(lethal
factor, LF;90KDa),浮腫因子(edema factor, EF;89KDa)から成っている.LFとEFが毒素の本体であるが,単独では毒性を示さず,PAの存在が不可欠である.また,多くの病原菌では多糖体から成っているのとは異なり,炭疽菌の莢膜は,Dhグルタミン酸のホモポリペプチドから成っている.両者の遺伝子支配は,それぞれ強毒株の持つ182および96キロベースの大プラスミドによる.それぞれのプラスミドが,炭疽の病原性に必須であることが証明されており,どちらかが脱落すると毒力が減弱する.パスツールによって作られた炭疽菌の弱毒ワクチン株は,莢膜形成プラスミドの脱落変異株であった. 毒素の細胞内侵入過程は特徴的で,まず,PAが大半の動物細胞上の存在するレセプターに結合する.このレセプターが最近同定されている.結合したPAは,細胞表層のプロテアーゼであるフリン(furin)などにより1個所で切断され,細胞表層に結合状態の63KDa(PA63)と細胞表層から遊離する20KDa(PA20)の2つに分かれる.PA63は,LFまたはEFと結合しオリゴマーを作り,細胞内に取り込まれ,細胞に障害を与える.このシステムを利用して,遺伝子組換え技術によりキメラ蛋白を作成して,生理活性物質の細胞内導入やワクチン開発への応用が期待されている. 一方,炭疽菌の莢膜は,免疫学的には“納豆のネバネバ”と同一であり,宿主による免疫機構,特に貪食作用から菌体を守る働きをしていると考えられている. |
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生物兵器としての炭疽 |
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(1)生物兵器の歴史 | |
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(2)炭疽菌の生物兵器としての利点 | |
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(3)炭疽菌による生物テロのシナリオ | |
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炭疽の予防や防御 |
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炭疽の自然発生を予防するには,炭疽を発症した動物を的確に淘汰し,汚染物の的確な廃棄や殺菌,感受性動物のワクチン接種,感染の可能性のある人間へのワクチン接種が最も効果がある防御方法である. 動物に対するワクチンは無莢膜変異株の芽胞体菌の50%グリセリン加生理食塩水内にアジュバントとして0.5%サポニンが加えられたものがわが国では用いられている.しかし,この株は完全に非病原株であるとはいえず,ヒツジやラマなどには毒力を保持している.また,防御効果は約1年は継続するので,発生地域ではブースターが必要である.一方ヒトに対するワクチンは,中国やロシアでは動物同様芽胞体による生ワクチンが使用されているが,一般的には,莢膜非産生,毒素産生株の上清の明礬沈殿物や水酸化アルミニウム沈殿物が用いられている.しかしヒトへのワクチンは長期間必要であり,副作用もあり,特殊な場合を除いては一般市民には用いられていない.たとえばアメリカの場合,ワクチン接種は2週間ごとに3回皮下注射し,その後,6,12,18カ月後に計3回皮下接種,次に1年おきにブースター接種を皮下に行うよう決められている.そのため,もっぱら動物に対するワクチンにより炭疽を減らそうとしているのが現状で,ヒトへの効果的で副作用の少ない新しいワクチン開発も行われている.しかし,テロリズムを想定した効果的な予防方法は現在のところないが,炭疽菌に暴露された近郊では予防的に抗生物質投与が行われる. |
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炭疽の抗生物質による治療 |
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炭疽菌は一般的にぺニシリンに対して感受性があるので,ペニシリンが第一選択肢として使用される.200万単位のペニシリンを2時間ごと静脈内注射するが,その他テトラサイクリンやエリスロマイシンも使える.耐性菌を考慮すると,シプロフロキサシン(400mgの8〜12時間ごと静注)やドキシサイクリン(初回200mg,その後12時間ごとに100mg静注)がアメリカでは用いられている.ただしこの濃度はアメリカ人を想定したもので,わが国でそのまま適応できるか不明である.また,シプロフロキサシンは2001年11月現在保健薬の適応を受けていない.ショックの回避や補液,酸素吸入などの対症療法も必要である.また,治療や検死中に使用した場所や器具などは,芽胞体の除染が必要である.消毒薬としては,ホルマリンや次亜塩素酸などを殺菌濃度で使用するが,次亜塩素酸は有機物の存在で活性が低下する.過酸化水素水や過酢酸も効果がある. |
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お わ り に |
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1857年コッホが炭疽菌を病原菌として同定して以来一世紀半が経とうとしている.この間,炭疽菌は,病原菌の持つあらゆる面を経験して今日にいたっている.炭疽菌の病原因子の一つが莢膜であることは,1908年に報告されている.パスツールが弱毒ワクチン株を作製して,十数年経った頃である.それに遅れること,約20年後,炭疽菌の毒素の存在が報告された.その他の病原因子が同定されてはいるが,おもな病原因子は今なお莢膜と毒素である.単純な因子であると思われるのに,その働きについてはずっと不明のままであった.しかし,この1〜2年,炭疽菌の発症機構の基礎研究が進展し始め,両病原因子とも複雑な機構を持っていることが明らかとなってきている.病気としてはもう古いという見方もあるが,宿主―寄生体の関係からみると,まだまだ興味深い点が少なくない.その一方で,炭疽菌は生物兵器の最有力候補として長く脅威の的であった.その脅威がまさにアメリカで現実に起こってしまった.化学・核兵器と異なり見えない脅威である生物兵器にわれわれはどのように立ち向かえばよいか,真剣に考えなければいけない時代になったのかもしれない. |
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