総   説

炭疽菌と生物兵器


6.炭疽菌の病原因子
 炭疽菌の病原因子としては,毒素産生能と莢膜形成能の2つが知られている.毒素産生能は3種類の異なる蛋白,防御抗原(protective antigen,PA;83kDa),致死因子(lethal factor, LF;90kDa),浮腫因子(edema factor, EF;89kDa)から成っている.LFとEFが毒素の本体であるが,単独では毒性を示さず,PAの存在が不可欠である(図2).また,多くの病原菌では多糖体から成っているのとは異なり,炭疽菌の莢膜は,D-グルタミン酸のホモポリペプチドから成っている.両者の遺伝子支配は,それぞれ強毒株の持つ182および96キロベースの大プラスミドによる.それぞれのプラスミドが,炭疽の病原性に必須であることが証明されており,どちらかが脱落すると毒力が減弱する.パスツールによって作られた炭疽菌の弱毒ワクチン株は,莢膜形成プラスミドの脱落変異株であった.
 毒素の細胞内侵入過程は特徴的で,まず,PAが大半の動物細胞上の存在するレセプターに結合する[3].このレセプターが最近同定されている.結合したPAは,細胞表層のプロテアーゼであるフリン(furin)などにより1個所で切断され,細胞表層に結合状態の63kDa(PA63)と細胞表層から遊離する20kDa(PA20)の2つに分かれる.PA63は,LFまたはEFと結合しオリゴマーを作り,細胞内に取り込まれ,細胞に障害を与える.このシステムを利用して,遺伝子組換え技術によりキメラ蛋白を作成して,生理活性物質の細胞内導入やワクチン開発への応用が期待されている[1].
 一方,炭疽菌の莢膜は,免疫学的には“納豆のネバネバ”と同一であり,宿主による免疫機構,特に貪食作用から菌体を守る働きをしていると考えられている.

図2 炭疸毒素成分

7.生物兵器としての炭疽
 7-1.生物兵器の歴史[2]
 史上最初の生物兵器の使用は,第一次世界大戦中に動物に対して行われたと報告されている.その後,ジュネーブ条約にもかかわらず,多くの国が第一次,第二次世界大戦の間に,生物兵器の研究を行った.1943年にアメリカでは,他からの攻撃に応じる場合を除き,生物兵器を使用しないと宣言した.また,英国では,炭疽菌を用いた生物兵器を実験したことがあるが,現在のところ,わが国が世界で唯一,第二次世界大戦中にペスト菌による生物兵器を使用したことで知られている.
 冷戦時代には,核兵器に焦点が当てられたが,1969年アメリカは旧ソ連に対し,生物兵器プログラムの保有を宣言していた.1972年の生物学および毒素兵器の会 議では,140カ国以上が,生物兵器による脅威をなくすことに合意した.しかし,旧ソ連では,研究開発が続けられたのである.その後,旧ソ連では,兵器工場から炭疽菌が空気中に放散され,少なくとも68名が死亡したという事故が1979年に起こっている.現在でも大量の生物兵器を開発・保有している国があると考えられている.わが国では,1995年の某宗教団体により炭疽菌やボツリヌス毒素が実際に散布されていたといわれている.

 7-2.炭疽菌の生物兵器としての利点
 生物兵器として使用される微生物は,(1)簡単にヒトからヒトへ拡散,伝播する,(2)高い死亡率,(3)パニックや社会の混乱を引き起こす,(4)公衆衛生上影響が大きい,などの特徴を持ち,安定性,感染性・伝染性,毒性・治療抵抗性,大量生産性,エアロゾル化可能がその効果を増強させる.これらに最も合致するのが炭疽菌の芽胞体である.さらに,炭疽芽胞体は「貧者の核兵器」と呼ばれるが,安価で大量精製可能である.たとえば,1km2当たりの有害化にかかるコストは通常兵器が2,000ドル,核兵器が800ドル,化学剤が600ドルかかるとしたら,生物剤はたった1ドルで済むのである.同時に表1に示したように,知らないうちに兵器として使用され,発症までに時間がかかるので生物兵器として検知するころには犯人は逃げてしまうという利点もある.まさに目に見えない恐怖こそが生物兵器なのである.



 7-3.炭疽菌による生物テロのシナリオ
 アメリカでは以前から炭疽芽胞体を用いた最悪のシナリオが想定されて,生物兵器への対処が為されてきた.たとえば,ボストン上空1万フィートから炭疽芽胞体を散布した場合,翌日には36名が非特異的症状を発現し,2日後には5,000名が呼吸困難症状を呈し,3日後になって炭疽のバイオテロの疑いが強くなってきたときには,5,000名死亡し,26,000名が重症,30,000名が軽症となっている.さらには,その翌日には22,000名が死亡,162,000名が発症,翌々日には72,000名が死亡,200,000名が発症するだろうと考えられている.
 炭疽菌は安価な培地を用いて比較的容易に大量培養ができ,芽胞体形成も容易である.しかも芽胞体の乾燥品として長期間安定であり,持ち運びが非常に楽である.炭疽菌の芽胞体100kgの乾燥品は,ヒトのLD50量の約1013倍に相当する.技術的や経済的に低い国でも攻撃用の兵器として作りやすく,ある限定された地域にヒトにも動物にも甚大な被害を与えることが容易にできる炭疽菌の生物兵器はヒトの愚かさの象徴であるといえる.確かに大学で簡単な微生物を扱ったヒトにとっては,比較的容易に炭疽菌を大量に培養可能ではあるが,感染力を持つ微粒子の乾燥芽胞を作るのは相当の技術,設備が必要である.すなわち,1〜5μmの大きさが肺に感染しやすく,しかも空中での滞留時間が長く,この大きさに加工する技術が最も重要であり技術力が必要とされるのである.

8.炭疽の予防や防御
 炭疽の自然発生を予防するには,炭疽を発症した動物を的確に淘汰し,汚染物の的確な廃棄や殺菌,感受性動物のワクチン接種,感染の可能性のある人間へのワクチン接種が最も効果がある防御方法である.
 動物に対するワクチンは無莢膜変異株の芽胞体菌の50%グリセリン加生理食塩水内にアジュバントとして0.5%サポニンが加えられたものがわが国では用いられている.しかし,この株は完全に非病原株であるとはいえず,羊やラマなどには毒力を保持している.また,防御効果は約1年は継続するので,発生地域ではブースターが必要である.一方ヒトに対するワクチンは,中国やロシアでは動物同様芽胞体による生ワクチンが使用されているが,一般的には,莢膜非産生,毒素産生株の上清の明礬沈殿物や水酸化アルミニウム沈殿物が用いられている.しかしヒトへのワクチンは長期間必要であり,副作用もあり,特殊な場合を除いては一般市民には用いられていない.たとえばアメリカの場合,ワクチン接種は2週間ごとに3回皮下注射し,その後,6,12,18カ月後に計3回皮下接種,次に1年おきにブースター接種を皮下に行うよう決められている.そのため,もっぱら動物に対するワクチンにより炭疽を減らそうとしているのが現状で,ヒトへの効果的で副作用の少ない新しいワクチン開発も行われている.しかし,テロリズムを想定した効果的な予防方法は現在のところないが,炭疽菌に暴露された近郊では予防的に抗生物質投与が行われる.

9.炭疽の抗生物質による治療
 炭疽菌は一般的にペニシンに対して感受性があるので,ペニシリンが第一選択肢として使用される.200万単位のペニシリンを2時間ごと静脈内注射するが,その他テトラサイクリンやエリスロマイシンも使える.耐性菌を考慮すると,シプロフロキサシン(400mgの8〜12時間ごと静注)やドキシサイクリン(初回200mg,その後12時間ごとに100mg静注)がアメリカでは用いられている.ただしこの濃度はアメリカ人を想定したもので,わが国でそのまま適応できるか不明である.また,シプロフロキサシンは2001年11月現在保健薬の適応を受けていない.ショックの回避や補液,酸素吸入などの対症療法も必要である.また,治療や検死中に使用した場所や器具などは,芽胞体の除染が必要である.消毒薬としては,ホルマリンや次亜塩素酸などを殺菌濃度で使用するが,次亜塩素酸は有機物の存在で活性が低下する.過酸化水素水や過酢酸も効果がある.

10.お わ り に
 1857年コッホが炭疽菌を病原菌として同定して以来1世紀半が経とうとしている.この間,炭疽菌は,病原菌の持つあらゆる面を経験して今日にいたっている.炭疽菌の病原因子の一つが莢膜であることは,1908年に報告されている.パスツールが弱毒ワクチン株を作製して,十数年経った頃である.それに遅れること,約20年後,炭疽菌の毒素の存在が報告された.その他の病原因子が同定されてはいるが,おもな病原因子は今なお莢膜と毒素である.単純な因子であると思われるのに,その働きについてはずっと不明のままであった.しかし,この1〜2年,炭疽菌の発症機構の基礎研究が進展し始め,両病原因子とも複雑な機構を持っていることが明らかとなってきている.病気としてはもう古いという見方もあるが,宿主-寄生体の関係からみると,まだまだ興味深い点が少なくない.その一方で,炭疽茵は生物兵器の最有力候補として長く脅威の的であった.その脅威がまさにアメリカで現実に起こってしまった.化学・核兵器と異なり見えない脅威である生物兵器にわれわれはどのように立ち向かえばよいか,真剣に考えなければいけない時代になったのかもしれない.

引 用 文 献
[1] Hanna, PC, Acosta, D, Colllier, RJ : Proc Natl Acad Sci USA, 90, 10198 (1993)
  [2] Inglesby TV, Henderson DA, Bartlett JG, Ascher MS, Eitzen E, Friedlander AM, Hauer J, McDade J, Osterholm MT, O'Toole T, Parker G, Perl TM, Russell PK, Tonat K : JAMA, 281, 1735-1745 (1999)
  [3] Bradley KA, Mogridge J, Mourez M, Collier RJ, Young JAT : Nature, 414, 225-229 (2001)
  [4] Makino, S, Sasakawa, C, Uchida, I, Terakado, N, Yoshikawa, M : Mol Microbiol, 2, 371-376, (1988)
  [5] Turnbull PCB : Guidelines for the Surveillance and Control of Anthrax in Humans and Animals, World Health Organization (1998)