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ある,フィラリア症への闘い
上原勇作(熊本県獣医師会)

 大急ぎで,1匹の犬が運び込まれてきた.重症である.一見して診断はついた.VCS.聴診で確認しようとするが,そのまま息を引き取った.
  飼い主によると,フィラリアの予防は完璧で,月に一度は必ず投薬していたという.では何故VCSか.与えていた薬を見せて貰った.ハンドバックから出された薬は,透明の小瓶に入った錠剤.ラベルはない.記号から,スパトニンであることが判明した.話には聞いていた薬品,思わず懐かしさを覚えた.
  かつて使われていた蛔虫の駆虫薬サントニン.物資不足の時代,このサントニンも海外から輸入された薬であった.田辺製薬が,これに代わるものとして作った蛔虫駆虫薬が,他の駆虫薬を上回る効果があることからスーパーサントニンと称し,これを由来としてスパトニンという名称になった.
  ヒトの糸状虫症(原因となるバンクロフト糸状虫:Wuchereria bancrofti,八丈小島で発見されたBrugia malayiも含む).いわゆる象皮病として知られる疾病であるが,紀元前600年から存在し,日本では,平安末期の絵巻物にもその姿が見られる.
  近代の記録では,明治45年陸軍省医務局の報告があり,沖縄の帯虫者率17.64%を筆頭に,大村,高瀬,鹿児島,以下都城…熊本…岐阜…青森…盛岡…宇都宮0.04%の順となっている.全国55地点で陽性.19地点で陰性.感染率では沖縄をトップに,九州,西日本,四国,中国地方の順となり,最北では青森まで及んでいた.北海道を除く,日本全国に蔓延していたのである(その後の調査で蔓延域は増加,感染率46.7%におよぶ地域も判明).
  フィラリアとの闘いは昭和20年代,戦後間もない物資不足の時代に始まる.医師団はミクロフィラリア(mf)の検査に,米軍基地の診療所の顕微鏡を借りてスタートした.
  当時の治療薬としては,ピクリン酸カリ,硝酸キニーネ,アンチモン剤,砒素剤,メチレン青等々が用いられていたが,さほど効果のあるものではなかった.一時期,米軍軍医が個人的に勧めた手持ちのジエチルカルバマジン製剤「Hetrazan」.医師団は当時,多くの薬剤に失望していたため,この薬もまた同様と考えていた.万策尽きた後,ラベルの能書きを読み返し,Kill adult worm, Permanent sterileの文字を発見.試用を決心するが量は少なく,わずか6名の患者が厳選された.事前説明後,6名全員が希望.投薬結果は5名が著効.1名は後に再発.しかしその時すでに,当の軍医は帰国した後.
  輸入について再三政府に働きかけるが,待てど暮らせど返事がない.もちろん,個人貿易が許される時代でもない.たまたま渡米の機会があり,自由時間を利用してLederle製薬会社を訪ねる.そこでは効果のほどを褒めちぎることにした,もくろみは見事に成功.お土産となったHetrazan(50mg)3,000錠を後生大事に持ち帰り,治療にあたった.その薬も底を尽きはじめた頃,日本製スパトニンが誕生する.
  フィラリア症治療のため,ありとあらゆる薬剤が試された.蛔虫用として開発されたスパトニンは,その中でも特に有効とされた薬である.
  いよいよ,フィラリア撲滅への本格的闘いが始まる.目標は,患者体内mfの殺滅と,蚊の駆除である.
  まずはツルヌス(夜間定期出現性)の研究,採血量の検討(時間と量),検血従事者の採血能力(時間内実施),集団検診(夜間)の実施方法,全国調査,スパトニンの投薬量および時間間隔,服薬方法,副作用の検討,住民の協力をいかにして得るか,国,県,市への働きかけ,蚊駆除のための残留噴霧実施方法(面積,薬剤量の記録,家具の移動方法,後始末等)(逆の健康被害を懸念),集団治療後の追跡調査.すべての実施方法は詳細に統一化され,ピペットの洗い方までマニュアル化.わずか7項目の集団治療指針にすら,作成に10数年の歳月を要した.科学的裏付けを得るためである.