10.私が経験した頃の狂犬病の在り方
  狂犬病予防に公衆衛生が最優先させるのに反して一般の家畜防疫は経済性を重視するのを建前とするので両者の間に相異する点のあることは当然である.犬の種類・資質のいかんを問わず最も人間と密着して存在する家畜であるだけに厄介な狂犬病のこととなると取り扱いをめぐるトラブルが起りやすいのが常である.
  一度狂犬病に罹ると最も悲惨な経過をとり100%死の転帰をとるので処理に当って誤りは許されない.
  (A)狂犬病の予防事務と通常の業務
   1)狂犬病の予防週間とその行事
    イ)野犬浮浪犬の捕かく抑留とその処理
    ロ)集団予防注射等
   2)咬傷犬の届出受理とその検診業務
  (B)特殊地域(桃山御陵)における野犬の掃蕩作戦
  昭和11年秋から13年秋まで2年間京都府警察部衛生課に勤務し,家畜防疫の主任技師として一般の家畜防疫に従事した外狂犬病予防担任技師を助けて桃山御陵内の野犬一掃作戦を担当したことがある.私にとっても始めての経験であったので特殊ケースとしてその概要を以下に書き残すこととした.
  不敬が許されない聖域の桃山御陵内に往々にして多くの参詣人が出入する時間帯に大小雑多な野犬が群をなし出没し,また苑内を荒し廻り参詣人に不快感を与えているばかりでなく,時として一般人が立ち入り禁止の御陵の上や周辺をわがもの顔に蟠踞し困惑しているので一掃してほしいと所轄の伏見警察署から警察部に要請があったことから始まったことであった.
  特殊地域であることから遺憾のないことを期し,私を長とし警察部衛生課の狂犬病予防事務担当の獣医職員2名,伏見警察署の警察官2名(部長・巡査各1名),野犬捕かく員2名計7名で班を編成し,一般参詣人の出入が絶える閉門後から翌朝の開門までの時間にこの特殊防疫を展開した.
  警察から得た情報では,通常野犬は数頭が群をなして御陵内の小路(犬道ともみられる)によって苑内を彷徨し,参詣人の休息所に設けられている金網の屑物籠から争って残飯等を引き出し時には針金をも喰いちぎるなど暴れ廻るのだということであった.そこであらかじめ四囲の条件を検討し毒物入り馬肉片を苑内の適所に撒布し,その一掃を図ることとした.作戦地域の白地図を作り犬道の要所要所に数ケ宛の肉片を撒布し,場ごとに配置敷を記入し犬の採食数と照合し不慮の事故発生を防止するための資料とした.
  諸作業を終えて引きあげたのが9時頃だったと思うが,翌朝7時頃全員が集合し前夜肉片を撒布した場所に近づくと撒布場所を中心に大小区々の野犬が少ないところで2,3頭,多いところでは4,5頭ずつ合計10数頭の死体が発見された.採食し間もなく死亡したものと見え,撒布場所から遠く離れたものでも10mくらいのものだった.屍体を集め解剖の上各屍体ごとに採った肉片の数を点検し地図記載の肉片数とを照合したところ合計約150個の肉片に一片の過不足もなかった.
  1頭ごとの採食数は,犬の大小とは無関係だったことや,この毒殺方法によるとその撒布場所から精々10m程度のところで採食した場合に死亡していることが判明した.肉片の大小や厚薄等による観察はやっていないが,注意深くやれば相当の効果が期待できると判断できた.
  これで特殊地域内の野犬掃蕩作戦は一段落したが,その後の野犬の出没状況を調査せず長期観察を怠ったので掃蕩作戦の正しい評価がされずに終ったのは残念ながら後の祭であった.
(埼玉県獣医師会発行「狂犬病予防の栞」より)
*著者は,平成3年5月19日逝去された.職名は発行時のもの.