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論 説

我が国の畜産を巡る状況と獣医学

西原真杉 (東京大学大学院農学生命科学研究科教授)

 1 はじめに
 獣医学と畜産学の接点ともいうべき生殖生理学を中心とした研究教育に30年以上にわたって携わってきた者として,近年の我が国の畜産を巡る状況と獣医学の課題について所感を述べたい.
 獣医学および獣医師の社会的役割は多岐にわたるが,我が国における産業動物の健康維持・生産性向上と畜産食品の安全性の確保は,その大きな柱の一つである.我が国における畜産の産出額は2兆4,188億円で農業総産出額の約30%を占め,米,野菜,果実のいずれの産出額をも上回っている.また,我が国の食料自給率がカロリーベースで約40%である中,特に鮮度を要求される飲用牛乳の100%,鶏卵の93%をはじめとして,畜産食品は全体として比較的高い自給率を維持している(いずれも平成18年度,農林水産基本データ集より).このように,畜産はその経済規模においても自給率においても我が国の農業を牽引する産業となっている.飼料が輸入に依存しているため,その価格高騰により畜産経営が深刻な状況におかれていることや畜産廃棄物のリサイクルが困難であることなど多くの問題を抱えてはいるが,海外におけるBSEなどの感染症やメラミンの混入などにより輸入畜産食品の安全性に疑問が持たれている状況では,国内における畜産の保護と振興は依然として我が国の農政における最重要課題の一つである.

 2 生殖関連技術の発達と産業動物生産
 我が国における産業動物の生産性の向上には,農林水産省や自治体の各種試験研究機関,家畜改良事業団等の畜産団体と相俟って,日本獣医師会の日本産業動物獣医学会,日本獣医学会の臨床繁殖分科会,日本畜産学会,日本胚移植研究会,日本繁殖生物学会など多くの学術団体における研究成果や技術開発が大きく貢献してきた.中でも,畜産学と獣医学の研究者の緊密な情報交換の場としても機能してきた日本繁殖生物学会は,戦後間もない1948年4月に当時の農林省畜産局の提言により産業動物の増産を目指して発足した家畜繁殖研究会を前身とし,我が国における人工授精,過剰排卵誘起,体外受精,配偶子や胚の凍結保存,受精卵移植などの生殖関連技術の開発や普及に大きな役割を果たしてきた.特に,凍結精液を用いた人工授精は我が国における牛生産の基盤的技術として1960年代から本格的に普及し,現在ではその普及率,凍結精液の利用率ともにほぼ100%となっている.また,現代の世界標準技術とも言うべき牛の非外科的受精卵移植技術も我が国の研究者により開発され,優良種雄牛の作出や繁殖牛群の改良,乳牛への肉用種受精卵の移植による付加価値の向上などに貢献している.牛や豚の体外受精卵の発生も1980年代には可能となり,その後の産業動物における実用的な体外受精・体外培養系の確立に結びついている.胚移植技術の普及に伴い初期胚の凍結保存技術の開発も精力的に行われ,新規の凍害保護剤の探索が多くの動物種を対象として進められた.これらの生殖関連技術の開発には生殖内分泌学の発展も不可欠であり,視床下部・下垂体・性腺系のホルモンの作用や分泌制御機構に関する基礎的研究,さらにその成果を基盤としたホルモン投与による産業動物の繁殖制御や繁殖障害の治療などに関する応用的研究も大きく進展している.
 一方,動物分野における生殖生理学に関する研究成果や技術開発は,発生工学の発展にも繋がっている.1980年頃に登場した卵子や胚のマイクロマニピュレーション技術は,後のクローニング技術の基盤となった.初期胚の顕微手術による一卵性多胎作出の試みが我が国において世界に先駆けて報告されたことは,日本製マイクロマニピュレーターが世界の発生工学分野に普及する契機ともなっている.生殖細胞や初期胚の操作技術はその後飛躍的な進歩を見せ,トランスジェニック動物やノックアウト動物など遺伝子改変動物の作出,X,Y精子の分別,核移植,顕微授精などの技術開発へと繋がっている.特に,1990年代後半に体細胞クローンの成功が羊で報じられ,哺乳類の体細胞核が生殖細胞と同様の全能性を獲得できることが示されると,マウス,牛,豚での体細胞クローン動物の作出が相次いで我が国の研究者により報告されている.これらの研究成果や技術開発は,学際的分野における生命科学研究の発展や,遺伝子導入により有用タンパク質を産生する産業動物(バイオリアクター)の作出,野生動物や動物園動物の人工繁殖による保全,人の生殖医療や再生医療などの分野にも貢献している.2008年5月には世界の代表的な生殖生物学に関する学会である米国のSociety for the Study of Reproduction,英国のSociety for Reproduction and Fertility,豪州のSociety for Reproductive Biology,日本繁殖生物学会(Society for Reproduction and Development)の4学会の共催により1st World Congress on Reproductive Biologyがハワイで開催されるなど,我が国の生殖生物学や生殖関連技術は国際的にも高い評価を得ている.

 3 産業動物生産における獣医学の課題
 上記のような生殖関連技術の発展による遺伝的改良の効率化と,濃厚飼料給与などによる飼養環境の改善により我が国の乳牛における乳量は大きく増加し,牛群検定情報によると1頭当たりの平均乳量は,検定事業が開始された1975年から2005年までの30年間で約1.6倍に増加している.しかしながら,このような乳量の増加に伴って乳牛の繁殖性の低下が認められるようになり,特に1990年以降にはその傾向が顕著となっている.経産牛では初回授精受胎率は50%を下回り,分娩間隔も430日を超えており,これらに伴い平均産次数も2.7産程度にまで低下している.さらに,生殖器疾患や泌乳器疾患をはじめとする疾患も増加傾向にあり,耐用年数も短縮してきている.このような繁殖性の低下には,特に分娩後の卵巣機能の低下による分娩後初回排卵の遅延や,発情の発見率の低下が関与している.乳牛では分娩後早期に乳量の急激な増加が起こるが,それを補填するに足る十分量のエネルギーを摂取することができないのではないかと考えられている.体内エネルギーレベルの低下はグルコースやケトン体等の代謝シグナルを介して脳に伝えられ,性腺刺激ホルモンのパルス状分泌を抑制し,卵巣機能の回復を遅延させる.現在,代謝シグナルやストレスが性腺刺激ホルモンのパルス状分泌を制御する視床下部神経機構(GnRHパルスジェネレーター)に及ぼす影響やそのメカニズムに関する基礎的研究が進められるとともに,分娩後の栄養状態の改善や卵巣機能の早期回復を図るためのホルモン投与プログラムの開発,乳汁中ホルモン測定による発情の予測や発情発見率の向上などに関する応用的研究が行われ,産業動物の繁殖性の向上に一定の成果を上げつつある.
 我が国の畜産の振興において獣医師の役割が極めて大きいことは論を俟たないが,農林水産省の獣医師の需給に関する検討会報告書(平成19年5月)にも見られるように,獣医師の活動分野や地域の偏在,特に今後の産業動物診療獣医師の不足が懸念されている.そのため,獣医学教育における産業動物臨床教育の充実や,産業動物診療に従事する獣医師の待遇改善などの必要性が指摘されている.獣医学教育の改善については,文部科学省の戦略的大学連携支援事業や共同学部設置に向けた検討がなされているが,現時点(平成20年10月)ではその動向については確定していない.一方,産業動物生産においては疾病の治療とともにその予防も重要であり,上記の産業動物の繁殖性低下に対する対応についても,栄養の管理,アニマルウェルフェアーに配慮した飼養環境の改善など,臨床繁殖学のみならず,栄養学,行動学などからのアプローチも必要となる.産業動物に関わる繁殖学,栄養学,行動学などの学問分野は,畜産学の体系の中で知識や研究成果が集積されている.畜産学は現在,多くの大学において応用動物科学,動物資源科学等の名称に変更されているが,畜産学の学問体系は産業動物の有効利用という側面のみならず,中・大型哺乳類の生物学としての側面も併せもっている.獣医系大学に進学する学生達は潜在的にこのような学問分野にも大きな興味をもっていると考えられ,それらを学習することは産業動物に対する理解を深め,産業動物臨床に対するモチベーションを高めることにも寄与すると考えられる.産業動物臨床教育の早急な充実が困難な状況では,畜産学系の学科との単位互換などにより獣医学における産業動物教育の充実を図ることができるものと考えられる.

 4 おわりに
 現在,農学系の各学科では学問の進歩や社会からの要請の変化に対応して,柔軟に講義科目のスクラップ・アンド・ビルドが行われるとともに,選択科目の枠が大きく拡大されてきている.これらの改革は,学生の学問に対する主体的な取組みを促し,モチベーションを高めることにも一定の成果を上げている.獣医系大学では獣医師国家試験への対応もあって選択科目枠の拡大には制約もあるが,可能な範囲において獣医学教育においても選択の幅を拡げ,他の学問分野,特に畜産学系学科と教育連携をすることにより産業動物診療獣医師の確保にも寄与し得るのではないかと考えられる.畜産学との連携は,当然「食の安全」等の公衆衛生分野の教育にも大きな貢献が期待できる.さらに,大学の附属牧場や外部の産業動物診療関係機関を利用した卒前教育,また産業動物診療に従事していない獣医師の再教育や生涯教育システムの確立も,産業動物臨床の充実や産業動物の生産性の向上には重要な課題である.多面的なアプローチにより獣医学,畜産学にまたがる教育体系を充実させ,併せて産業動物診療獣医師を確保していくことは,今後の我が国における畜産の振興にも大きく貢献するものと考えられる.




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