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論 説

産業動物臨床の現場から獣医学の教育・研究へ

佐藤 繁 (岩手大学農学部教授)

佐藤 繁
 最近,乳牛では高泌乳化,肉牛では枝肉の高品質化が一段と進展し,飼養管理と経営の効率化を目指した経営規模の拡大や収益重視の飼養管理が行われている.また,乳牛では周産期疾病や乳房炎,繁殖障害,肉牛では下痢症や肺炎などが多発し,これら疾病の発生は生産性低下の大きな要因となっている.一方,我が国における畜産業の課題は,近年まで食糧自給率の向上,担い手の確保および生産性の向上対策などであったが,最近では牛海綿状脳症(BSE)の検査体制見直しと米国からの牛肉輸入圧力の増大,経済連携協定(EPA)の行方,バイオ燃料に伴う穀物価格の上昇などの新たな課題が加わった.畜産業を取り巻く情勢は極めて厳しく,すでに個人的な経営努力によって問題を解決することは困難な状況になっている.
 著者は,大学を修了後,直ちに宮城県農業共済組合連合会(NOSAI宮城)家畜診療研修所に勤務し,27年間にわたって産業動物の診療と家畜共済事業の推進に取り組んできた.産業動物臨床の現場では,臨床獣医師としてどうすれば畜産農家に貢献できるのかを考えて仕事をしてきた.その後,平成19年にNOSAI宮城の臨床現場から岩手大学の獣医学教育研究の場に異動した.教育研究の場では学生教育と臨床研究に没頭しているが,一方で地方の獣医系大学が置かれている厳しい現実にも直面している.今回は,産業動物臨床の診療および教育・研究について,著者の経験に基づいた私見を披露する.

 1 産業動物臨床の現場
 産業動物臨床の現場においては,診療業務が主体であることは言うまでもない.NOSAIに勤務している獣医師にとっては個体診療と損害防止事業,さらに家畜共済への加入推進が重要な業務であり,開業獣医師にとっても個体診療と繁殖検診などの生産獣医療が主体となる.個体診療で多忙を極めている地域では,臨床獣医師は畜産農家の期待に答えるため,昼食の時間を惜しんで夜遅くまで診療し,その後もカルテ整理や業務日報の作成など事務処理を行っている.個体診療と生産獣医療を誠実に実践し,畜産農家から信頼の厚い獣医師ほど日常の業務が忙しい状況にある.
 一方,臨床獣医師は畜産農家の経営に貢献するため,何ができるか,何をするべきかを常に考えている.言い換えれば,臨床獣医師は診療技術を研鑽し,高度獣医療と生産獣医療に関する情報を得るために日夜奮闘努力している.私は家畜診療センターに勤務する獣医師の人材育成を担当していたが,「獣医師は畜産農家に貢献する自然科学者である.自然科学を志す者は科学論文を書いて,自分の経験を後世に伝えることが責務である」と言って,若い獣医師の職業意識と向上心を鼓舞していた.家畜診療センターの管理職の仕事は,人材育成に尽きると言っても過言ではない.多くの臨床獣医師は,畜産農家の経営に貢献するため,さらなる研鑽が必要と痛感している.私自身も大学時代の恩師の教えを守り,臨床例を慎重に観察し,結果をまとめて雑誌に投稿することを心がけていた.その結果,腫瘍性疾患や中枢神経病変を中心に貴重な牛の症例などを報告することができた.さらに幸運なことに,上司や同僚の理解と協力を得て,診療業務の傍ら東北大学においてルーメン細菌に対する牛の免疫応答および牛の免疫システムの発達に対するルーメン細菌の影響に関する研究を行った.その後,乳牛の周産期疾病の病態解明と予防に関する研究にも従事した.
 このような経験から,産業動物臨床における人材育成では,単に家畜診療センターや各県連合会ごとに対応するのでは不十分で,少なくとも東北地方全域を対象とした「産業動物臨床研修センター」が必要と考えていた.各県のNOSAIと大学や研究機関,地域行政とが連携し,産業動物の健康維持や生産性向上に関する調査研究,地域畜産と農家ニーズに対応した診療および損害防止技術の開発,疾病発生動向の変化など家畜の生産性阻害要因の摘発と解決を行い,さらに,産業動物診療獣医師の自主的な研究活動の支援,大学の産業動物臨床実習を支援する臨床現場と大学のネットワーク構築などを行うセンター構想である.

 2 産業動物臨床の現場から大学へ
 長年にわたる産業動物臨床現場での経験から,我が国の畜産業発展や農家の経営安定のためには,将来を担う有為な人材の育成と畜産業の振興に寄与できる研究成果が必要であると痛感していた.産業動物臨床の現場から教育研究の場へ異動するにあたって,以下のような目標を設定した.
 獣医学教育については,大学に入学する優秀な学生を,さらに視野が広く,人間性豊かで社会に貢献できる人材に育成する.近年,世界的規模で政治や経済が変動し,我が国の畜産情勢も急激に変化しているが,この変化に対応し,国の自立を確保するためには幅広い知識と的確な判断力を持った人材が必要である.また,産業動物臨床獣医師の基本的な資質としては個体診療や生産獣医療に関する知識と技術のほか,農業者の気持ちが理解できる深い思いやりと豊かな人間性が必要である.これらのことから,学生に対して獣医学と畜産学に関する基本的知識を習得させることは当然であるが,これらの学問が社会的にどのような役割を果たしているのかを教え,畜産業や農家の指導者として活躍できるよう学生を活動的で熱意に溢れた若者に育てる.
 獣医学研究については,わが国の自立や食糧自給率の向上に寄与できる研究および東北地方の畜産振興に寄与できる研究を行う.経済効率を優先した飼養管理によって動物本来の恒常性が破綻し,種々の疾病が多発して生産性が低下しているので,以前から取り組んでいる乳牛の周産期疾病の病態解明と予防に関する研究を継続して実施する.

 3 産業動物臨床の教育と研究
 大きな目標を持ち,一方で,予備的知識は全く持たずに産業動物臨床の教育研究の場へ異動した.大学での生活は驚きの連続であった.大学の教員は研究室運営のために全ての仕事を自分でやる必要があること,決定よりも議論に多くの時間を費やす数多くの会議に出席しなければならないこと,外部から研究費を獲得しないと教育研究はもちろん,研究室運営もままならないこと等々,驚きの範囲を越した現実に直面した.しかし,学生に対して産業動物臨床の話や人生の話をすることは,単純に楽しく至上の喜びでもある.従って,現在のところ,大学での生活は「意外と大変,意外と楽しい」というのが率直な印象である.
 近年,産業動物診療と公衆衛生分野を担う獣医師が不足しているが,この獣医師偏在の根底には,多くの大学において教育の質と量が確保できていないという問題がある.現在の我が国の獣医学教育については,国家試験の科目を十分教育できる教員が配置されていない,大学間の教育内容に大きな格差があるなどの問題が指摘されている.これらの課題を解決し,産業動物臨床を担う人材の育成を図るためには,さらに多くの困難なハードルを越える必要がある.
 (1)教   育
 臨床教育の目的は,学生の断片的な獣医学的知識を目前の動物を用いて系統的に結びつけさせることである.産業動物臨床の講義と実習は,4年生から5年生にかけて行うが,この時期の学生は,すでに基礎科目や応用科目を履修しているので,獣医学に関する知識を十分に有している.事実,総合臨床実習などで学生に牛を観察させると,初めは大変不器用で,教員が慌てることもあるが,とても素直に牛を観察している.そして学生の観察力は,しだいに動物が抱えている問題の本質に近づいて行くのである.実習を通して学生は動物の生命力に驚き,私は学生の素直さと潜在能力に驚いている.獣医系大学で学ぶ学生が産業動物臨床に興味を持つよう,臨床の楽しさを教えることが私どもの使命である.当然,将来にわたって,学生の受け皿としての就職が確保され,相当の待遇が準備されていることが前提ではある.
 一方,獣医学の勉強を志し,獣医師になるために入学した学生に対して,入学後の早い時期に産業動物に触れる機会を与えることも重要である.岩手大学では1年生の基礎ゼミで牛の分娩を観察させ,2年生の牧場実習で牛の飼養管理や健康状態の観察方法を教えている.実習を待っていたかのように,1年生も2年生も大変な興味を示してくれる.また,今年度,岩手大学では産業動物診療獣医師確保対策・就職支援事業に取り組んだ.全国各地の2年生や3年生を対象として,産業動物に対する理解を深めさせることは意義のあることと再確認した.
 (2)研   究
 大学において産業動物に関する臨床研究を行う場合,研究課題が明確であっても,研究費の問題,マンパワーの問題,実験牛確保の問題など研究を開始する以前に解決するべき課題も多い.特に産業動物を対象とした研究では,その成果が臨床領域で普及・活用されるなど実学的な側面を有していることが望ましい.また,地域との連携を図り,地域の産業動物臨床や畜産業に貢献することも不可欠である.現在,これらの課題を念頭において「愚直一徹」に解決策を模索している.
 (3)卒後教育・地域貢献
 産業動物臨床獣医師は,個体診療や牛群検診などを通して畜産農家の生産支援に努めている.臨床獣医師の技術と知識は,畜産農家の経営安定と収支改善を図る重要なツールであると言っても過言ではない.従って,臨床獣医師は日々診療技術の研鑚に努め,最新の知識を習得して畜産農家に還元することが社会的責務となっている.しかし,実際には臨床獣医師は診療業務などで多忙を極めており,希望する内容を研修すること,あるいはその時間を確保することは困難な場合が多い.
 大学が行う卒後教育や地域貢献では,産業動物臨床獣医師が自ら求めるテーマについて,それを解決するための機会を提供することが重要である.平成17年に設立された岩手大学農学部付属動物医学食品安全教育研究センター(Food Animal Medicine and Food Safety Research Center; FAMS)の食料生産動物医学部門では,卒後教育と地域貢献の一環として,昨年から「FAMS診療技術セミナー」を開催した.本セミナーは,東北地方のNOSAIに勤務している中堅技術者を対象とし,最新の獣医学的知見の習得および基本的な診療技術の確認を目的とした少人数制のセミナーである.

 4 産業動物臨床を担う人材の育成
 産業動物臨床を担う学生の育成では,獣医師免許の取得を目指した教育を行うことは当然であるが,動物の生命を考えることのできる人材を育成したい.臨床獣医師を目指す学生は,伴侶動物や産業動物にかかわらず,動物の生命を尊重し,病気の診断治療ばかりでなく疾病予防も考慮して問題を解決できる科学者の資質を持つ必要がある.また,学生には個体診療を通して家畜飼養者と接し,人間的に成長して欲しいとの期待もある.さらに,学生に対して,なぜ産業動物臨床の勉強をするのかを教えたい.伴侶動物を含めて臨床獣医師の仕事は,動物を相手にした仕事であるが,本当の相手は動物を飼育することによって心の安らぎを得ている飼い主であり,動物が生産する牛乳や肉によって生計を立てている農業者であることを認識させる必要がある.
 以上のように,産業動物臨床に携わる獣医師は将来にわたって畜産業と畜産農家に貢献するため,個体診療と生産獣医療,経営指導の専門家になることが求められている.そのために自己研鑚によって自らの意識を改革し,意識を変えることによって自らの行動を変え,行動を変えることによって自らの組織を創造するとの視点を持つことが大切である.これらのことは,大学において産業動物臨床の教育研究を担当する現在においても,普遍的な事実であると確信している.




† 連絡責任者: 佐藤 繁(岩手大学農学部獣医学課程生産獣医療学研究室)
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