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論 説

食品安全行政を巡る状況

辻山弥生 (農林水産省消費・安全局消費・安全政策課食品安全危機管理官)

辻山弥生
 1 は じ め に
 多くの先進国では,消費者の食品安全に対する関心や懸念に答えるため,また,食品輸出市場で生き残るために,国内の食品安全行政の強化に取り組んでいる.
 それらの国々や,国際会議で共通して強調されていることは,[1]国民の健康保護が最も重要,[2]農場から食卓まで,すなわち生産から消費までをカバーした対応(フードチェーンアプローチ)及び[3]科学に基づく判断と後始末より未然防止という考えに基づくリスク分析の導入である.
 我が国でも,BSEの発生を契機として,平成15年7月に,リスク評価機関として食品安全委員会が設立され,農林水産省と厚生労働省はリスク管理機関としての機能が求められるようになった.農林水産省は組織改変を行い,消費・安全局を誕生させ,フードチェーンアプローチやリスク分析の導入等科学に基づいた政策を実施すべく努めている.

 2 フードチェーンアプローチ
 1990年代までは,食品安全政策といえば最終産物の規格・基準の策定と検査が主流であり,食品の安全確保にはそれで十分であると考えられてきた.しかしながら,大規模な食品事故がいろいろ起き,そもそも問題や事故が起きる原因は生産段階での汚染であることが多いということが明らかになり,2000年以降は生産段階も含めた安全管理が重要であるという考え方,すなわちフードチェーンアプローチが世界的な常識となっている.
 図1に,農林水産省と厚生労働省の役割分担を示した.生産段階から消費段階にわたって,生産,流通及び消費の改善を通じた安全確保を行うのが農林水産省であり,後半部分は厚生労働省等食品衛生部局による規制があり,それらの機関とも連携して,安全性の確保というのを考えなければいけないというのがフードチェーンアプローチである.

図1 フードチェーン・アプロー

図1 フードチェーン・アプローチ


 3 リスク分析
 リスク分析とは,リスク管理,リスク評価及びリスク・コミュニケーションの3つの要素を含んでいる.リスク分析は,「分析」という言葉の語感から,何か化学物質を分析することと勘違される場合が多いが,問題・事故の未然防止が目的とするプロセスである(図2).
 諸外国では,以前から何らかの問題が発生する可能性がどの程度か事前に把握し,問題発生の可能性と問題発生による健康影響等を考慮して,予め予防策を講ずるという考え,すなわちリスク分析を食品安全行政に導入している.我が国でも,食品安全行政にリスク分析の考え方が導入されたのは昨日や今日のことではないが,その意味が十分理解されているとは言い難い.
 特にリスク管理は,食品安全上の問題が生じた場合に対策を取ることと誤解されることが多い.問題が生じた場合に対策を取るのは,危機管理である.ここで,表1にもあるように,危機管理と比較することによりリスク管理についての理解を深めてもらいたい.
 問題・事故が起きた場合,被害や影響を最小限に留めることを目的にするのが「危機管理」である.たとえば,大規模な食中毒事故だったり,バイオテロであったり,そのような場合にパニックの発生や問題・事故の拡大,再発を防ぐように対応することである.
 一方,「リスク管理」は,問題が起きないように,事前に対応してしまうことである.そのために,どのような問題や事故が起きる可能性があるかを知る必要がある.

図2 食品安全に係るリスク分析

図2 食品安全に係るリスク分析

表1 「リスク管理」と「危機管理」の違い


 4 リスク管理とリスク管理措置
 リスク管理は,リスク分析というリスク低減のためのプロセスの中の一要素である.リスク管理,リスク評価及びリスク・コミュニケーションの関係については,図3を参照いただきたい.リスク分析のプロセスのスタートは,リスク管理である.問題点の特定から始まるリスク管理の初期作業は,リスク管理機関が担い,リスク評価が必要と判断した場合に,リスク評価機関(日本では「食品安全委員会」)に依頼することとなる.
 政策・リスク管理措置の決定は,それ以降のプロセスとなり,措置実施後もモニタリングを行い必要に応じて見直すこととされている.
 「リスク管理」は,初期作業([1]〜[6]),政策・リスク管理措置の評価([7]〜[9]),決定した政策・リスク管理措置の実施([10])及びモニタリングと見直し([11])からなる一連のプロセスである.「リスク管理措置」は,実際の措置,たとえば基準値の設定,実施規範の導入等個々の措置である.

図3 食品安全に係るリスク分析の枠組

図3 食品安全に係るリスク分析の枠組


 5 ハザードとリスク
 リスク分析を理解する上で,ハザードとリスクの意味について知る必要がある.ハザードとは,危害要因とも言う.健康に悪影響をもたらす原因となる可能性のある食品中の物質又は食品の状態のことである.よくあるのは,ハザードが当該食品に少しでも含まれれば,直ちに人への健康被害があるという誤解である.
 残留農薬等は基準値を超えただけで,ただちに健康影響が出るようなイメージを持たれているが,リスクはハザードの毒性とその摂取量により決まる.ダイオキシン類もその毒性の強さから,微量でも検出されるとそのリスクを大きく受け止められてしまうが,実際は摂取量を考慮すれば,健康影響は極めて小さいことが多い.病原性微生物も同様である.一部の微生物を除き一般的な食中毒原因菌は,健康な人ではかなり多く微生物を摂取しないと発症しないと言われている.少々微生物を摂取しても健康影響が出るわけではない.
 当該食品のリスクとは,それを摂取することにより健康影響が起きる可能性と健康影響の程度のことである.微生物をハザードとすると,その微生物により人が10万人中何人病気になるのか,またはその程度はどのようなものかがリスクである.ゼロリスクを求める消費者の声やマスコミ報道があるが,ゼロリスク,すなわち「絶対安全」はありえない.リスクは多かれ少なかれ存在し,程度の問題だということについては,リスク管理を推進する中で,多くの方々に引き続き理解を求めていきたい.
 畜産物に係るハザードとしては,腸管出血性大腸菌O157等の食中毒原因微生物,カドミウム,ダイオキシン類等の汚染物質,農薬や動物用医薬品の残留物等が具体例として挙げられる.物理的という観点からは注射針の残留もあるだろう.畜産物に係るハザードの中で,欧米で最もリスクが高いと考えられるのは食中毒原因微生物である.

 6 微生物リスク管理と実態調査について
 コーデックスでは,「微生物リスク管理の実施のための原則及び指針」を策定しており,加盟国がリスク分析を食中毒原因微生物のリスク管理に導入するための枠組みを示している.なお,この文書で示されているプロセスは,微生物に特化しつつも,その枠組み自体は,図3に示したものと同じである.
 微生物リスク管理は,フードチェーンアプローチ,すなわち生産段階(飼料,農作業,環境条件),製品の加工,輸送,貯蔵,配送,流通,調理,消費までのすべての過程をカバーした対応をすべきとしている.
 実際に,EUでは,農場段階のサルモネラ属菌の汚染率低減を図ることにより,食中毒発生件数を低減することとしており,鶏(ブロイラー,レイヤー)及び豚のサルモネラ属菌陽性率の低減目標を定めるためにも,すべての加盟国に汚染実態のサーベイランスを義務付けている.
 また,デンマークでは取り組みが進んでおり,ブロイラー,レイヤー及び豚生産農場のサルモネラ属菌の汚染率を低減することにより,鶏肉,鶏卵及び豚肉を原因とする食中毒患者数が大幅に減少している.
 このように,諸外国では,食中毒原因微生物についても,生産から消費までの全過程を考慮に入れたリスク管理が実施されており,我が国もようやく,取り組みを開始したところである.その第一段階として,現状がどのような実態になっているのか,微生物汚染の状況を把握するために実態調査を19年度から開始しており,肉用牛,ブロイラー,採卵鶏農場等での食中毒原因微生物の実態調査を実施している.
 「微生物リスク管理」という言葉は耳慣れないかもしれないが,これまでの取り組みとまったく違うことをするわけではない.これまでも,農場の衛生管理の強化を生産者は取り組んできている.これはリスク管理措置であるが,国全体として現状がどの程度の汚染率であるか不明なため,行政としても目標を定めていなかった.今後は,実態を把握し,それに基づき行政の目標を定め,衛生管理の強化等を推進し,その効果をモニターしていることにより「リスク管理」の枠組みの中での取り組みとなる.これまでには,措置の効果が上がっているのかどうか不明のまま取り組んできたが,これからはそうではない.
 なお,目標値の設定や具体的措置の決定に際し,そのコストや実現可能性を考慮して決定することは言うまでもない.食中毒発生件数をより少なくすることが最大の目標ではあるが,そのコストが過大なものになり,畜産物価格を引き上げる結果になったり,生産者の経営が圧迫されるようなことになるまでの措置を求めることはあってはならない.
 また,実態調査の結果,農場段階では現在の対策で十分である,又はこれ以上の対策強化は困難であるとの結論が得られる場合もあるだろう.フードチェーンのどの段階での対策を講ずるのが一番効果的なのかということを確認するためにも,実態を把握することが必要である.

 7 お わ り に
 畜産物の生産に携わる者として獣医師の役割は重要である.畜産物は加熱して食べるものだから,農場段階での微生物汚染率は,畜産物の安全性とは関係ないとお考えの方もいらっしゃると思うが,諸外国の取り組みの成果を考慮いただきたい.汚染実態調査を全国レベルで実施することは,その結果の公表により当該畜産物についての風評被害を引き起こすとの懸念も承知している.それでもなお,食中毒低減のためにはまず実態を把握する必要があることを理解いただきたい.
 「食の安全・安心」という言葉が世の中に氾濫して久しい.一時期,消費者の関心を集めたミートホープを始めとする「偽装表示」の事件を報道する新聞等のマスコミ,特にテレビのワイドショーでしたり顔のコメンテーターが,「食の安全が脅かされている.」とコメントするのを聞いたのは一度や二度ではない.
 言うまでもなく,偽装表示自体は食品の安全性とは無関係であるが,食品事業者や行政機関の誠実な姿勢と真摯な取組等に対する消費者の「信頼」と,科学的,客観的に決定される「安全」とが両立した時に,消費者の心理的判断として「安心」が生じるのである.関係各位には,食品安全に係る農林水産省の取り組みに引き続きご理解と一層のご協力をお願いしたい.




† 連絡責任者: 辻山弥生(農林水産省消費・安全局消費・安全政策課)
〒100-8950 千代田区霞が関1-2-1
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