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解説・報告


 15 動物医療水準
 所謂医療裁判において,診療上の不法行為の基礎となるのは,診療当時の医療水準である[19].獣医療裁判においてもこの判断手法が踏襲されている様に思われる.
 医業と獣医業は国家的な任務が異なり,法制度,規模等には大きな差がある[20, 21].特に,一般開業獣医師の業務は主に予防を中心としていることは各種公表されている統計より明らかである.即ち,犬の場合70%がワクチン接種やフィラリア等の予防を目的とした理由による来院であり,猫でも病気での来院は50%弱である(図1,図2)(略)[23].
 また医療ではそれぞれ専門に分科している外科,内科を始めとした様々な疾患に対応しなければならない獣医療では,動物用に認可されていない人用医薬品を使用する他,手術や治療処置等に数多くの獣医療慣行が実施されているのが現実であろう.医療慣行を医療水準としないとする医療裁判での認定基準[20]をそのまま獣医療裁判における獣医療水準認定に適用することの是非が問われるべきではないだろうか.
 医療裁判で被告となるのは,一般開業医ではなく主として病院とその勤務医であることが多い.今回,我々の調査において被告となった獣医師は一般開業獣医師である.医師と獣医師,特に一般開業獣医師との間には医療上の注意義務,施術上の技術等に(大きな)差異があると思われる[5].それにも関わらず獣医療裁判に医療訴訟と同様の判断手法が妥当であるとされた[15].
 人の医療は,使用薬剤の用量用法をはじめとしてその適用は厳密に定められ,診療は専門分化し,各種治療法や手術法等が標準化されており,医学的にも法的にもさらに倫理的にも確立された感がある.しかしながら,獣医療では動物用医薬品が少ないため,動物用に認可されていない人用医薬品を裁量権のもとに使用せざるを得ない[20]こと,診断技術や治療法ばかりでなく二次及び高度獣医療,紹介制度,専門医制度等,まだまだ未整備な部分が多々ある[24].人の医療における患者の治療等に対する自己決定権は確立されている[19].獣医療裁判でも自己決定権の侵害を認定された[13-15].人の医療でのpatient(患者)はclient(依頼者)と同一であるが,獣医療ではpatient(ペット)とclient(飼い主owner)は異なっており,すべての決定権はclientである飼い主(owner)に委ねられている.飼い主の決定権と動物愛護法の理念との間に齟齬が生じる場合,我々獣医師はどう対処すれば良いのであろうか.獣医療裁判において医療と同様の基準による判断手法が妥当であるのかどうかの議論がまずは必要であろう.

 16 まとめ
 今回,我々の調査により,飼い主は,動物病院での治療行為等において納得できない結果となった場合には,動物種,年齢,疾患の種類に関わらず提訴に踏み切る可能性があるということが明らかとなった.初診は言うに及ばず10年間通院したかかりつけの獣医師であっても,また獣医師の経験年数,病院規模,さらには勤務獣医師,院長,ということには関係なく提訴されており,獣医師資格の無い診療補助者であっても賠償責任訴訟の被告となりうることが判明した.そしてその共同不法行為,さらに院長は使用者責任を問われている.今後は獣医師だけでなく,獣医師以外のスタッフにも損害賠償請求が及ぶ可能性を考慮したスタッフ教育あるいは労務環境の整備が必要であろう.
 今回の調査では,東京での裁判件数が非常に多かったが,おそらく地域に関わらず全国各地で類似の獣医療裁判が争われているであろう事が想像される.
 獣医療裁判の審理期間は通常訴訟に比べ長期に及ぶことが分かった.また,獣医療裁判における認容率は和解を含めると一般訴訟のそれよりも高い可能性がある.その理由としては,原告飼い主の怨念とも思える程の執念とその意を汲んだ弁護士の強硬な弁論と立証に対して,被告獣医師側弁護士の獣医療裁判に対する経験不足と被告獣医師の裁判に対する意欲の低さがあると考えられる.それ以上に重要と思われるのは,医療裁判の判断手法をそのまま獣医療裁判に適用するために,被告獣医師に不利な判断がなされている可能性である.原告側弁護士にも敢えて「医療集中部」での審理に持ち込もうとする戦略が垣間見られる.法曹関係者は獣医療裁判においても概ね医療裁判の判断手法適用を肯定しているが[3, 5, 15],国民健康保険制度のもと検査,薬剤投与の適用範囲も厳密に規定され,統計的にも容易にその時々の医療水準を推し量ることのできる人の医療で発生する医療裁判とこれらの点において未整備な獣医療現場で起こる獣医療裁判とを同様の判断手法(特に獣医療水準の認定と説明義務の範囲の認定において)で審理することの妥当性が検討されるべきではないだろうか.
 また獣医師側の問題として,カルテをはじめとしてX線検査,エコー検査,細胞診等の画像記録,手術時の麻酔記録,外注した病理検査結果等各種記録の管理や保存等の不備により審理が長期化したり,裁判官の事実認定に支障を来たした例が少なくなかった.また,記録不備の為に判決上不利となった例も見られた.治療処置や手術中,場合によっては診察中のビデオや音声等を記録して保存管理する事は,日常の診療業務の煩雑さを倍加しかねない事ではあるが,飼い主からの同意形成あるいは疑問や不信感に対する説明の為には必要となることもあろう.我々獣医師は,カルテをはじめ種々の記録を厳密に保持,管理していくことが求められているのではないだろうか.


引 用 文 献
[1] 医事関係訴訟委員会答申:判例タイムズ,1179,4-15,判例タイムズ社,東京(2005)
[2] 吉田眞澄:法律時報別冊私法判例リマークス,17,76-79,日本評論社,東京(1998)
[3] 長尾美夏子:法律時報,73(4),35-39,日本評論社,東京(2001)
[4] 岩上悦子,勝又純俊,押田茂實:日獣会誌,57(10),615-617(2004)
[5] 判例時報,528,666-670,判例時報社,東京(1968)
[6] 判例タイムズ,226,164,判例タイムズ社,東京(1968)
[7] 判例タイムズ,787,211-214,判例タイムズ社,東京(1992)
[8] 判例時報,1606,65-68,判例時報社,東京(1997)
[9] 判例タイムズ,942,148-152,判例タイムズ社,東京(1997)
[10] 判例タイムズ,1156,110-121,判例タイムズ社,東京(2004)
[11] 判例時報,1889,65-75,判例時報社,東京(2005)
[12] 長谷川貞之:法律時報別冊私法判例リマークス,32,52-55,日本評論社,東京(2006)
[13] 判例タイムズ,1217,294-303,判例タイムズ社,東京(2006)
[14] 岩上悦子,勝又純俊,押田茂實:日獣会誌,60(1),12-16(2007)
[15] 椿久美子:法律時報別冊私法判例リマークス,35,34-37,日本評論社,東京(2007)
[16] 岩上悦子,勝又純俊,押田茂實:日獣会誌,61(3),169-174(2008)
[17] 判例タイムズ,1254,216-231,判例タイムズ社,東京(2008)
[18] 判例時報,1990,21-33,判例時報社,東京(2008)
[19] 手嶋 豊:ジュリスト,1339,54-59,有斐閣,東京(2007)
[20] 牧野ゆき,池本卯典:池本卯典,小方宗次編 獣医学概論,198-203,文永堂出版,東京(2007)
[21] 池本卯典:獣医畜産法規を学ぶための獣医学部 獣医事法学,63-97,インターズー,東京(1998)
[22] 池本卯典:知っておきたい獣医科診療室の法律,90,インターズー,東京(2001)
[23] 多摩獣医臨床研究会編:イヌ・ネコの疾病統計,インターズー,東京(2008)
[24] 佐藤喜隆,佐藤 隆:日獣会誌,58(9),587-588(2005)



† 連絡責任者: 佐藤 隆(さとう動物病院)
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