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−獣医学学位取得者からのメッセージ(III)−
開業獣医師の博士号取得の意義
1 は じ め に 「開業獣医師が博士号を取得することにどのような意義があるのだろうか?」.よく聞かれることであるし,私自身もそう思っていた.しかし,現在は取得による多くのメリットを実感し,意欲のある獣医師には是非トライしていただきたいと思う.本稿における自分の経験談が,博士号を取得すべきか迷っている開業獣医師の一助となれば幸いである. |
2 博士号取得に至るまで 私は1989年から現在まで,北海道十勝地方の小さな町で獣医師私1人と1〜2名の動物看護師という小規模な体制で小動物臨床に携わっている.岐阜大学大学院連合獣医学研究科(岐阜連大)へ入学したのは1998年,36歳で,帯広畜産大学家畜内科学教室の宇塚雄次助教授(現在岐阜大学獣医臨床放射線学教授)に勧められたのがきっかけだった.初めは即座にお断りした.なぜなら大学院に所属せずとも症例・研究報告の口頭あるいは投稿論文による発表を行うことに支障はなかったし,博士号を取得してもそれ自体は自慢や宣伝するものではなく,ましてや動物病院に来院する飼い主にとっては,博士号の有無は重要なことではないからである.さらに,大学院での研究のために時間を取られることは,小規模の動物病院では診療がストップしてしまうことに直結する.しかし,博士号を取得するチャンスは何度もあるわけではなく,その時に意義は分からなくてもせっかく勧めていただいたこの機会を逃せば後々後悔するかもしれないと思い入学を決意した.それから主指導教官となる当時の帯畜大内科・更科孝夫教授,宇塚雄次助教授と研究内容の相談,入学試験の勉強を始めたのだが,この時はまさかこんなに大変な試練が長々と続くとは想像もしていなかった.博士号取得タイトルは,「犬の低体温症の発症機構に関する研究」である.北海道十勝地方では冬季に気温がマイナス20℃を下回ることはしばしばであり,この時期には屋外飼育犬が低体温症と虚脱状態で搬入されることが多い.一方,寒さをものともせずに元気でいる犬がほとんどであることも事実である.屋外飼育犬の低体温症に複数の内分泌異常が関与している可能性を示唆する論文を既に一報発表済みであったため,さらに研究を深めてこの両者の違いを知ることを目的とした.低体温症発症犬の解析,屋外飼育ビーグル犬の通年データの蓄積及び実験的寒冷刺激試験をベースに論文を組み立てた.通年のビーグル犬からの採材・測定は予備試験を加えると約2年間,日・祝日に学部学生に手伝ってもらいながら大学で実施し,実験的寒冷刺激試験は,ほぼ1年間を通して私の動物病院入院室で実験犬を2〜3頭ずつ飼育しながら順に土日祝日に夜を徹して実施した.症例犬は近隣の動物病院に協力していただいて採材した.これらに加えてデータの整理・解析,参考文献を読むこと,投稿論文の執筆等は,診療を終え食事・入浴後から明け方までという毎日であった.私には当時小学生から高校生までの3人の息子がいたが,当然家族サービスは不可能な上に,研究が暗礁に乗り上げていた後半戦は家庭内が私に気を使ってとてもピリピリしていたことを後に妻から聞いた.しかし,幸いなことに自宅と動物病院は店舗兼用住宅として一体であり,息子達と妻は日頃の診療や実験・研究を直接見ていたためによく理解してくれた.そればかりか,大学での実験時に学生の手が借りられない時には同行して補助を,また院内での実験は家族全員で手伝ってくれた.社会人で研究生活を送るにはこのように家族の理解を得ることが重要な要素と考えられる.研究は決して順調に進まなかった.仮説通りの結果が出ない.何度も実験計画を組み直してやっと結果が出ても投稿論文がReject(受理不可)の繰り返し.やっと投稿論文が複数受理されても博士論文としてのレベルになかなか届かなかった.博士号取得のための研究を始める以前は投稿論文のRejectは経験が無く,本格的な研究というものの重さを思い知らされた.その結果,博士課程は通常4年で修了だが,私は6年間を要した.しかし,今となってはそれらの苦悩は全てプラスに作用している.たとえRejectであったとしても,関連研究分野のレフリーが理由を詳細に明記して返される.つまり,国内外の専門家が無料で指導してくれるのである.それをもとに修正し再投稿することの繰り返しで,論文がすぐれたものに変化していくのを実感した.博士論文にまとめる過程においても各配置大学(岐阜連大は帯畜・岩手・東京農工・岐阜大)の副査の方々にこれまでの人生で最大級と言える程の厳しい指導を受けた.しかし,いずれの指導も博士論文として恥ずかしくないもの,より良いものを作り上げるための前向きなものであり,一時は病床にさえあった更科教授は入院先から電話で指導して下さり,その間,急遽主指導教官となっていただいた帯畜大薬理学教室・西村昌数教授からはそれまで想定していなかった研究手法を教えていただいた.このように博士論文は自分一人ではなく,国内外の学術誌のレフリー,四大学の主査・副査の先生方,研究室の学部学生,家族の皆で作り上げた物であった. |
3 博士号の意味と取得によるメリット さて,「開業獣医師が博士号を取得することの意義」についてである.博士号を取得するまでの過程でサイエンスの手法や考え方を徹底的に叩き込まれ,それがしっかり身についた段階で学位が与えられる.つまり,博士号を取得することは,一人前のサイエンティストとしての「身分証明書」が交付されるという意味であると考える.では実際にどのようなメリットが生まれるのだろうか.岐阜連大を修了後まず始めた事は,研究期間中に封印して貯めこんであった日常診療における症例・研究報告を投稿論文と口頭発表の形で吐き出すこと,それから博士論文をまとめる過程で得られた臨床に有用な知見について臨床家向けの雑誌で紹介することであった.その作業で気付いたことは,たとえ症例報告の論文であっても以前よりも相当洗練されたものが書けること,口頭発表も余裕を持って楽しく行えることである.さらに,新たに取り組み始めた研究に関して,大学や研究機関の共同研究者とのディスカッションを対等のレベルで行うことが可能となり,まさにサイエンティストの仲間入りを実感する.さらに,若い意欲のある臨床獣医師から診療や学術的なことに関する質問・相談を受けることが多くなり,学会・研究会での仕事,様々な執筆依頼が持ち込まれる.一見面倒な仕事が増えるのだが,受けるからにはさらに勉強しなければならず,結果として自分自身のさらなるレベルアップに繋がってくる.このように,博士号取得の意義を簡潔に言えば,サイエンティストの仲間入りと研究能力の飛躍的な向上が得られることである. |
4 博士号取得後如何に行動すべきか 上述のように博士号そのものは単なる「身分証明書」に過ぎない.したがって,取得後こそ常に探究心を持ち,症例・研究報告を継続して行わなければならない.当院のような地方の小規模動物病院でさえ日常の診療の中に多くの新知見や報告すべき症例が見つかる.それらを本誌のような学術誌に積極的に投稿することで多くの獣医師と情報の共有ができ,文献として記録に残る.また,博士号は多くの先輩サイエンティストによる厳しくも暖かいご指導によって得られたものであるから,熱意のある後輩獣医師達を育てることで恩返しをしなければならない.そして最も重要なことは,博士号取得者はサイエンティストの身分証明書を持つものとして,サイエンスの目的が人とそれに繋がる生命を幸福に導くことであることを常に認識していなければならない.なぜなら,サイエンスはその使用法,あるいは時の為政者により人々を幸福へも破滅へも向かわせるからである. 以上に記述した内容は,私の経験と考え方にすぎず,全ての臨床獣医師に当てはまるものではない.まずは主指導教官になっていただく予定の教授とよく相談することから博士号取得の道は開けてくる. |
† 連絡責任者: | 大橋英二(あかしや動物病院) 〒089-0535 中川郡幕別町札内桜町112-2 TEL・FAX 0155-21-5116 |