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キャッチャー・イン・ザ・紀伊
〜畜産畑の何でも屋〜
和歌山県紀南家畜保健衛生所で技師を務めて2年目,獣医師としても2年目となる.家畜保健衛生所の業務については,家畜保健衛生所法において,「地方における家畜衛生の向上を図り,もって畜産の振興に資するため」の「事務」を行う部署とされている.辞書を引くと「事務」とは「主として机の上で取り扱う仕事」であるそうだ.言葉のとおり,家保職員といえば検査や病性鑑定など,屋内で働いている姿が浮かぶ方が多いのではないだろうか.もちろんそれらも重要な業務であるが,実際には机の上だけでなく,検体の採材や衛生指導のために生産現場にも頻繁に足を運ぶため,一般的な印象より実はアクティブな部署だと思われる. 加えて,和歌山県の家保では,防疫業務のみならず診療業務も行っている.一部の離島や僻地などの例外を除き,県下全域を対象に日常的に家保が診療を行う県は,日本では和歌山だけである.また,人工授精や受精卵移植,去勢や除角などの家畜管理支援,子牛市場の防疫指導,経営安定のための指導や事業推進なども家保が行っており,まさに生産者と共に畜産の最前線で働く何でも屋と言える.広い管内に畜産農家が点在する和歌山県ならではのこの業務形態は,もはや読者の持たれている家保のイメージとはかけ離れているのでは無いだろうか. さて,そのような畜産何でも屋になってから2年,めまぐるしく周囲の環境が変わり私自身の生活も大きく変化した.以前と比べて爪を頻繁に切るようになったこともその変化の一つである.社会人としての身だしなみももちろんだが,主な理由は「直腸検査時に腸壁を傷つけないため」である.防疫業務だけに限れば直腸検査は稀にしか行わないが,家畜診療となると母牛の繁殖障害治療には必須の技術であるし,諸臓器の触診,浣腸,人工授精,受精卵移植,妊娠鑑定,糞便検査…と直腸に手を入れる頻度が増える.その際に直腸壁を傷つける伸びた爪は禁物で,詰まるところ爪切りが必携となるわけである. 皆さんは初めて動物の直腸に手を入れた時のことを覚えておいでだろうか.私の初体験は大学馬術部時代の疝痛馬であった.その時はただただ馬を治すことに必死だったが,先輩が馬の肛門に片手を突っ込む場面を初めて傍で見た時は,正直言って驚愕したのを覚えている.私もある農家で直腸検査中,遊びに来た近所の子供が目を丸くしていたので,おそらく誰もが初見時は似たような印象を持つのであろう.上述のとおり大変有用な技術なのだが,肩口までのビニール手袋と脛までの前掛けを着けても,汚れやにおいが避けられないあたりが敬遠される所以であろうか.学生時代の実習では,伴侶動物臨床志望の同級生に「必要ない」と言われるほどの不人気ぶりであった.日本に獣医学教育を行う大学は16校あるが,産業動物診療にウエイトを置いた実習を行う大学は少数派で,実習用に用意できる牛や馬の数は限られているのが実情のようである.私が実習で大動物に触れたのは限られた回数だけであったが,思わぬ形で馬術部時代の経験が活かせる業務に就き,現在も諸先輩方の指導のもと技術を研鑽している日々である. 私自身が未だ駆け出しの身で,生産者から求められるような何でも屋にはまだ達していない現状でありながら,このようなことを申し上げるのはいささか恐縮ではあるが,現実として獣医師免許の保証しているはずの最低限の能力と実際の新人獣医師の能力には乖離があると言わざるを得ない.決して自分の能力を過大評価していたつもりはないが,2年目になっても現場で無力感を覚えることが多々ある.そのような時,学生時代を振り返って「もっとあれを勉強しておけばよかった」と思うことも多いのだが,逆に「これにこんな使い道があったのか」と思う場面にも出会う.獣医学の応用面には多様な方向性があり,そのいずれもが社会に役立つかけがえの無いものである.皆さんの後輩には是非,あらゆる獣医学分野のエッセンスをどん欲に吸収するように指導いただきたい.スペシャリストの能力を伸ばす機会は卒業後にいくらでもあるが,ゼネラリストになる土壌を培う機会は卒業後には学生時代ほど豊富ではない.獣医師は全員が牛馬も犬猫も診られるようになるべきだ,とは言わないまでも,和歌山の家保に限らずどの分野でも獣医師は少なからず何でも屋であることを求められる.専門外の分野に触れる機会の重要さを説けるのは,すでに各分野のスペシャリストとして活躍なされている先輩方なればこそ,と思われる.追って私も和歌山型畜産のスペシャリストとなり,後輩の指導に当たれるよう精進していきたい. |
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† 連絡責任者: | 後藤洋人(和歌山県紀南家畜保健衛生所) 〒649-2103 西牟婁郡上富田町生馬320-10 TEL 0739-47-0974 FAX FAX 0739-47-2483 E-mail : goto_h0001@pref.wakayama.lg.jp |