会報タイトル画像


学術 ・ 教育

−獣医学学位取得者からのメッセージ(I)−
「獣医学博士」取得のすすめ

高須正規(岐阜大学応用生物科学部助教・岐阜県獣医師会会員)

高須正規
 学部時代,ポリクリで毛の抜けた小さな牛を担当した.担当の獣医師からの報告書には,発育不良と記されていた.私のいた大学のポリクリでは,各班で病気の動物を担当し,臨床診断,必要に応じた治療,最終的には剖検,病理診断をすることになっていた.私達の班は,その発育不良の牛をマープと名づけた.私達はマープの発育不良の原因を明らかにしようと,様々な試験を行った.最終的には病理解剖を行った.しかし,発育不良の原因は判らなかった.マープとの縁なのだろうか,その3年後,私は「黒毛和種牛における虚弱・発育不良症候群の病態解明」をテーマに大学院へ進学した.
 大学卒業後,少しの間,臨床に携わっていたので,進学を志すに当たり,少しでも現場の役に立てる可能性のある研究テーマを選びたかった.そんな時,岐阜大学へ進学の相談に行くと,岐阜県の黒毛和種牛で発育不良が多発することを知らされた.岐阜県を含めた中山間地では,お年寄りが細々と肉牛の繁殖農家を営んでいることがある.このような小規模な農家で発育不良が認められた場合,その経済的,精神的損失は特に大きい.もし,発育不良の原因が明らかになり,少しでも経済的損失を軽減させることができればと思い,進学を決意した.
 これまでは,下痢や肺炎による慢性消耗が原因の発育不良でも,遺伝病である尿細管形成不全等による発育不良でも,大きくならない牛は十把一絡げに発育不良牛といわれていた.私の研究では,下痢や肺炎等,発育不良の原因となる疾患がない牛を発育不良牛とした.これまでに,黒毛和種牛における発育不良に関する知見はほとんどなかったので,発育不良牛とはどのような牛なのかを明らかにしなければならなかった.まず,発育不良牛の体重と体高を毎月測定し,一日増体重や体格の特徴を検討した.学部時代はマウスやラットを用いた実験室内での実験を行っていたので,研究というと白衣でピペットを持って実験室にこもるイメージがあった.したがって,発育不良に関する研究も細胞を培養したり,遺伝子を扱ったりするものだと思っていた.しかし,博士課程のスタートは子牛を連れて付属農場まで体重を量りに行くことから始まった.時々,子牛が言う事を聞かず,学内の芝生に入ろうとする.子牛の扱いに困っていると,通りがかりの人々が目を細めて,微笑ましい光景をみるような表情でこちらを見ていることがあった.
 研究が進み,発育不良牛の消化機能を評価しなければならなくなった.反芻動物の消化機能の評価には,消化試験をしなければならない.大学院も3年目となり,学部生のKさんの卒業研究を受け持った.そこで発育不良牛における消化試験をKさんのテーマとした.消化試験は一週間の採食量と排便量を測定し,それらから乾物や粗タンパクといった栄養成分の消化率を求める試験である.この試験を大学から約2時間の奥美濃にある公営牧場で行った.朝起きるとカッコーの声が聞こえる清々しい高原にある牧場にテントを張り,予備期間を含めて約2週間,24時間体制で牛の糞を回収する日々を過ごした.日を追うごとに,なんとなく情けない気持ちになっていった.
 また,動物の発育に重要な働きを示すホルモンには成長ホルモンがある.発育不良の研究をするに当たって,このホルモンの測定は外せない.しかし,このホルモンはパルス状の分泌を示すため,長時間にわたって頻回採血し,濃度曲線下面積等でホルモン分泌を評価しなければならない.具体的には朝9時から夜7時まで,15分間隔で10時間のサンプリングを行った.サンプリング時は牛から離れることができないので,できる事は限られてしまう.あまりにも手持ち無沙汰だったので発育不良牛のブラッシングを繰り返した.サンプリングが終わる頃になると,充分にブラッシングされた発育不良牛が黒光りしていた.
 私の論文は,ネーチャーやサイエンスといった一般に評価の高い雑誌に掲載されたわけではない.もちろん,ノーベル賞等の大きな賞に値する研究ではない.獣医学の一部,しかも黒毛和種牛というわが国でのみ飼育されている肉用牛の虚弱・発育不良症候群の病態の一部を解明したに過ぎない.ちいさな研究である.実験方法も最先端とは言いがたい.しかし,私にとって,この研究は博士課程を通じて取り組んだ大きな研究である.指導教官各位,学部生,農済や各市町村の先生方,県の家畜保健衛生所の先生方,県の試験場や他大学の先生方,農家の方々,多くの方の支えがあったからこそできた研究である.私にとって,この研究の結晶である学位は,他に換えられないものである.たしかに,評価の高い雑誌に掲載されることや多くの人に賞賛されることはすばらしいことだと思う.しかし,他人の評価よりも,自分自身が高い評価を付けられることが一番だと思う.私は自身の学位を誇りに思っている.また,学位取得を目標に過ごした時間を大切に思っている.
  職を持っておられる先生方が学位を取得することは決して易しくはないと思う.また,職を辞して学位を目指すことは,大きな決心が必要なことだと思う.しかし,学位取得という一つの目標を持って博士課程を過ごす時間,もしくは論文博士のために地道に研究を続けられる時間は,本当に楽しい時間であると思う.大学の敷居は思ったほど高くはない.多くの研究室は暖かく迎え入れてくれると思う.もし環境が許すならば,学位の取得を志してみてはいかがだろうか.


† 連絡責任者: 高須正規(岐阜大学応用生物科学部獣医学講座獣医臨床繁殖学分野)
〒501-1193 岐阜市柳戸1-1
TEL・FAX 058-293-2955
E-mail : okgondy@gifu-u.ac.jp