|
大橋邦啓†(埼玉県獣医師会会員・諏訪流放鷹術保存会鷹匠)
私が小学生の頃,我が家は越後の山村で養鶏を営んでおり,その冬はことのほか豪雪で,何日も雪が降り続いた.ある日の夕方,鶏舎に衰弱して舞い降りた鷹を発見した.鶏を食べる元気も無く,羽ばたく力も無いほど痩せて,ただうずくまっていた.当時近在に獣医師はおらず,どうしたものかと思っているうちに死んでしまった.それから2年ほどして小学校で映写会があった.それは東北の農民鷹匠が熊鷹を使って鷹狩をするまでの訓練を写したものであった.子供の私にはとても衝撃的で,いつまでも興奮が収まらず,大人になったら鷹匠になりたいと強く思うようになった.その後色々なことを学ぶうちに,日本の野鳥は保護されていること,鷹の捕獲や飼育は許可されないことなどを知り,到底かなわぬ夢と諦め,動物が好きだったこともあり,獣医師の道へと進んだ. 大動物診療をしながら,偶然にも昭和6年,宮内省式部職発行の「放鷹」を目にする機会に恵まれ,日本の伝統的鷹狩り文化を目の当たりにし,子供の頃の思いがまた沸々とわきあがってきた.
鷹狩は紀元前4000〜4500年頃に中央アジアで始まり,世界中に広がったと言われている. 日本書紀によると西暦355年,百済の渡来人酒君が鷹を調教し,仁徳天皇がその鷹を用いて大阪の百舌野で狩をしたのが公式の鷹狩の歴史の始まりとされており,以来,鷹狩は皇族や将軍家等の高貴な方々が保護して,その伝統を守ってきた. 放鷹術の諏訪流は,その昔,諏訪大社における贄鷹の神事を司っていた流派であった.織田信長が天皇から鷹狩を許され,自分の鷹を調教する鷹匠として諏訪から小林家次を招き入れた.家次は織田信長に家鷹の名を許され,その後豊臣秀吉,徳川家康に召抱えられた.そして江戸将軍家直参鷹匠として,諏訪流第13代鷹師小林鳩三まで仕えた. 特に世界遺産の日光東照宮御祭神である徳川家康公はことのほか鷹狩を愛好され,生涯に千回をこえて鷹野に出られたといわれている.そして,御鷹場の管理,野生鳥類の生息環境の保全などの諸施策は3代将軍の時代に完成し,以後幕藩体制のもとで強固に守られてきた.たとえば各藩では,鷹が繁殖する巣のある場所に御巣鷹山などと名前をつけ,鷹匠奉行を任命し一般人の立ち入りを禁止し,保護するなどである.そして良い鷹が捕れると将軍家に献上した.将軍家では献上された鷹を,諏訪流はじめ各流派の鷹匠が調教し,その鷹を用いて殿様が狩りをし,とれた獲物はその鷹を献上した大名に下げ渡すという慣わしがあり,そのため全国的に鷹を保護し,江戸時代末期でも,御巣鷹山などと名前の付いた保護区は全国に400箇所を数えたと言われている. 江戸時代,戦の無い平和の時代に江戸庶民の文化は花開き,数々の芸術が生まれ発展した. 放鷹術も日本の美しい風土の中で独特の発展を遂げ,その繊細緻密な日本の鷹狩の技は,今日世界中から特に高く評価されている. 明治時代になると,鷹狩は天皇に返され,14代鷹師小林宇太郎は宮内省(現宮内庁)に雇用され,15代鷹師福田亮助,16代鷹師花見 薫まで古技保存として放鷹術が保存されてきた.当時から欧州では鷹狩が貴族の特権として広く行われており,宮内省では欧州からの賓客の接待に浜離宮庭園などで鴨猟が盛んに行われていた. しかし戦後,宮内庁が公式な鷹狩を行わなくなって久しく,鷹狩の伝統が退廃していくことを危惧した諏訪流16代鷹師花見 薫氏は,退職後民間にその技を伝え,現在17代鷹師を允許された田籠善次郎氏が中心となり,日本において1600年余の伝統ある放鷹術の古技を保存すると共に次世代に継承すべく活動を続けている. 私は今年,田籠善次郎諏訪流第17代鷹師から諏訪流鷹匠の認定をいただいた. 本年1月2〜3日は東京都汐留の浜離宮恩賜庭園にて恒例の「新春放鷹術実演」を行い,延べ2万人の方々に観覧いただき,また4月29日には日光東照宮様にて「諏訪流放鷹術 神技奉納」と題して放鷹術を奉納させていただいた. 獣医師として,伝統ある日本の放鷹術を保存継承するとともに,鳥獣保護や自然教育に鷹匠の歴史や技術を取り入れ,積極的に社会貢献を果たしていきたいと活動している. できるだけ多くの方々に,鷹を実際に目で見て触れていただきたいと実演会を実施しており,伝統ある鷹術が,ぜひ多くの獣医師会会員の皆様の目に留まるよう,お待ちしている. 注 : 私達の飼養している鷹は輸入個体である. |
† 連絡責任者: | 大橋邦啓(大橋獣医科医院) 〒369-0306 児玉郡上里町七本木3501-82 TEL ・FAX 0495-33-2275 E-mail : sofin1@yahoo.co.jp |