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北村直人†(日本獣医師会顧問)
東北三大祭の一つ秋田竿燈祭りの最中,秋田県秋田市文化会館で開催された,第5回夏休み公開講座「どうぶつのお医者さん」のアドバイザーとして,日本獣医師会会長山根義久先生,日本獣医師会前会長五十嵐幸男先生と一緒に私も参加を許された.秋田県下の子供たち(小学生・中学生・高校生など)や保護者等,獣医師に興味のある方々が大勢集まった. 「獣医師になったきっかけは? 現在のお仕事の内容は? 将来の夢について楽しいお話が聞けますよ! 動物に関わる仕事について興味があること,知りたいことがある人は,どんどん質問してみましょう!」をキャッチフレーズに,夏休み公開講座「どうぶつのお医者さん」を開催する会の主催,秋田県獣医師会(砂原和文会長)の後援により,秋田県南部家畜衛生所の山田典子先生,秋田県動物管理センターの上田かおり先生,御所野どうぶつ病院の高橋鶴美先生が各分野での仕事にかける思いを語った. 各先生方が獣医師になったきっかけを熱っぽく語るのを聞くうちに,自分が獣医師になったきっかけとは……頭の中を駆け巡った. 私が獣医師を志したのは,どのような理由でいつ頃だったのか,今となっては定かではないが,幾つかの出来事が重なり合った結果ではないかと思っている. その一,私の生まれ故郷は酪農地帯,北海道東部,阿寒郡鶴居村(タンチョウ鶴の里)だ. 祖父は,大正8年に長野県から開拓団として入植,祖母は岐阜県からの入植で,父は,奈良県から入植していた母と結婚して私が生まれた.長野・岐阜・奈良県の血筋を持った,道産子三世である.北海道東部の厳しい環境の中での開拓を経て,貧しい農家の子として私は生まれた.子どもの頃,祖父のふとんの中で何度も聞かされた,武田信玄・上杉謙信の「川中島の合戦」は,今でも懐かしく思い出させる.米も農作物も育たない地帯で,私が分別つく時期には,父と地域の人達の血の滲む努力と苦労で酪農が導入され始めていた.農家にとって牛は,貴重な存在であった.一頭でも失えば生活に重大な影響を及ぼす,特に春先の放牧時,通称「ガス」が多発した.乾燥飼料を十分に与えてから放牧する理由を科学的に理解したのは,獣医学を学んだ時だ. その二,私は元来,犬が大好きではなかった.中学時代夕方,新聞配達のアルバイトをしていた(アルバイト代は,ひと月500円.月に一度,朝8時の始発に乗り一時間半かけて釧路市へ行き,チャンバラ映画の3本立てを観た後,カレーライスを食べ,夕方4時の最終で帰る.ちょうど500円.楽しかった).その際,犬に追いかけられた.当時の道路は砂利道,石に足をとられて,見事に転び,二度も痛い目を味わった.一方,犬はしっぽを振り,私と遊んででもいるかのように,転んだ私の顔を舐めていたが.その時の私は,からだ全身で恐怖を感じた.恐怖感が薄らいだのは動物の行動学を学んだ時からだ. その三,高校は釧路市内で下宿生活,いつもお腹を空かしていた.余り物の刺身があったが遠慮した(何と無く,嫌な予感を感じた),友人が私の目の前でパクついた.数時間後,友人がお腹を抱え転げまわり,嘔吐と下痢で庭にうずくまった.往診で事なきを得たが,強固に食べることを阻止できなかった自分の無知に腹が立った.ブドウ状球菌による食中毒だと分かったのは,大学で微生物教室に所属した後であった. このような体験が,潜在的に蓄積されたと思う. それまで私の思うとおりの事をさせてくれた父.しかし,大学受験を控えた年の暮れのこと. 「どこの大学に行くのだ」と,父. 「文科系を受験する」と,私. 「農家の息子が文科系に行ってどうする,獣医の大学に行け」 父から命令が下った. 父は偉かった.私はそれに従った. 父の命令は4年後にも下った. 私は血を見るのが好きではなかった.解剖学・内科学・外科学の臨床実習等は,いつも後ろの方から傍観を決め込んでいた.だから微生物教室を選んだ.唯一,血液寒天作り時の採血には慣れることができたが. 将来,顕微鏡を覗く,そんな職場を夢見ていた. ところが,大学4年目の正月.また父から…. 「将来,どうするのだ」 「公衆衛生か,研究所かな」 「ばかもん,酪農家の息子は地元の家畜診療所だ」 父は偉かった.しかし,私も偉かった.大動物臨床獣医師に決めた. 社会人の第一歩は,鶴居村農業共済組合家畜診療所の獣医師である. 奉職してまもなく,1,000ccクラスの中古車が与えられた.4月,5月はお産の多い時期,産後起立不能症が多発しており,一人で往診するときが来た.牛舎では患畜と農家の母さんが待っていた.私のいでたちは,ベンケーシーばりの白い上下と七分の白衣,白の手術帽,50kgに満たない小柄な獣医師.母さんは不安げな顔. 「注射します,牛の頭を補綴してください」 「いつもの獣医さんは,このままで注射するよ」 「えぇ〜っ」 このときばかりは,真面目に実習を受けていればと後悔の念でいっぱいになった. しかし,やるしかない. 母さんにリンゲル液を持たせ,頸静脈に投げ針を,祈る気持ちで二度ほど犠打後,一気に針を静脈に刺した. 瞬間,針の根元から血液が一滴二滴流れ出た. 「今度の獣医さん,注射うまいね」 母さん,にっこり笑って言ってくれた. 大動物臨床獣医師 北村直人の誕生である. その後,農協の営農指導を含め10年間,現場で臨床獣医師として勤めた. 昭和55年,父が衆議院議員に当選,私の人生が大きく変わっていった. 獣医師公設秘書の誕生である.そして,更に人生が変わっていった. 病魔に倒れた父に代わり,総選挙に立候補. 昭和61年7月,臨床経験ある唯一の獣医師衆議院議員北村直人の誕生である. 東京都千代田区永田町1丁目に衆議院,つまり国会がある. 永田町界隈に,国会に関係する建物が集まっており,霞ヶ関界隈には,主要官庁が集まっている. 日本のすべてが,ここ,永田町と霞ヶ関で決められてしまう. 国民を幸福にも不幸にもするのが,永田町・霞ヶ関である. 私は,この永田町・霞ヶ関に6期足掛け20年,秘書活動を入れると25年,身を置いてきた. 内閣官房副長官として総理官邸に,農林水産副大臣として農林水産省に,衆議院農林水産委員会の委員長としてなど等. 獣医師・衆議院議員北村直人は,常に「科学者としての獣医師は人権擁護の立場に立ってこそ社会的な存在価値がある」「科学者が自分の持ち場で少なくとも嘘をつかない」,この先人の「獣医師としてのあり方」が,私の政治の原点である. 動物愛護管理法の二度の改正に直接携わってきた,個体識別・所有者の明示にマイクロチップの導入を決めた. その議論の最中に,危険動物・特定動物,特定外来生物にマイクロチップを埋め込むのは当然だが,「永田町の危険動物?(国会議員?)が一番最初が良い」と,嘘とも揶揄とも本音とも取れる声がでたのも,当世うなずけた. 我々,有権者の清き一票が国を創り,国を変える,信じて進もう. 獣医師が現場で現役として社会貢献している数は,約36,000人.1億2,000万人分の36,000人である,誇りと自信と責任を持って社会貢献して行こう. 最後に,多くの国民は獣医師と聞くと動物の医者と答える.それ以外の分野での認識は,あまりない.さらに一層,獣医師の社会貢献分野の認識を深めていかねばならない. 獣医師のための獣医師の日ではなく,国民・市民のための獣医師の日を確立し,市民・国民への獣医師の活動を紹介していくことが喫緊の課題である. 本年,10月7日(日),東京都庁「都民広場」にて開催される,日本獣医師会主催の「2007動物感謝デー in Tokyo“World Veterinary Day”」は,人と動物の共生を守る,獣医師の仕事と役割,人の健康と環境を守る,獣医師の仕事がテーマである.正に夏休み公開講座の全国版である.本イベントを獣医師が一丸となって成功させよう! そして継続しよう! |
† 連絡責任者: | 北村直人(日本獣医師会) 〒107-0062 港区南青山1-1-1 TEL 03-3475-1601 FAX 03-3475-1604 |