この6月,北海道で食肉加工業者の偽装が発覚した.だがこの業界では,昔からこの類の違反はあったのだ. 慶応から明治へと年号が変わる頃,東京や横浜で牛肉が売り出され,あちこちに牛鍋屋が開店し,文明開化に乗り遅れまいと,今でいうグルメブームが到来した. 明治2年,漸く東京に公設の屠牛場ができ,庶民も牛肉を手に入れられるようになったが,当時1日20頭前後の屠殺で高級食材だった.このため明治6年頃から豚も食べるようになり,同9年東京府は「屠牛豚肉規則」を公布した.翌10年警視庁は「諸獸屠場規則」に改正して牛羊豚の検査制度を導入し,同時に「賣肉規則」も公布し,屠畜のほか販売業者まで規制した.その頃朝鮮半島から牛疫が侵入しており,病牛死牛の肉を売る悪質者がいて取締りをしていた.だが勿論獣医師誕生前で,当時の衛生警察は内務省の所管だったから,東京府では明治6年発足の警視庁が担当し,警官が巡回していた. その後明治15年頃から馬肉も食べるようになり,同20年警視庁は改めて「屠獸場取締規則」を公布し,屠獣に馬も加えて販売も規制した.当時東京府下では,牛の屠殺は年間約1万4千頭,馬が約4千頭だったと. ところが牛肉の需要が多くなり,また高値のため,肉質が似ているので牛肉の小間切れに安い馬肉を混ぜる者が横行していた.そこで警視庁は,賣肉規則を改める. 賣肉取締規則(明治22年,警察令第25號) 第3條それでも違反が多かったので,更に取締りを強化する. 獸肉營業取締規則(明治41年,警視庁令第20號) 第5條こうして混売を禁じ,産地届出をさせ罰則を加えた.後に大正15年の改正「食肉營業取締規則」でも第12條で同一営業所で牛馬肉の販売を禁じ,産地明示も義務づけ終戦時まで続く,さてこの混売取締りが厳しかった頃警視庁の獣医室に,石原廣義という獣医師がいた.彼は牛馬の混売小間切れの中から,馬肉だけを摘みだす特技を持っていた.業者は「小間切れ獣医」が来たといって戦戦恐恐だったと.彼が存命だったら,まだそんなことをやっているのか,と今を嘆くことだろう.
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