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全 頭 検 査 神 話 史
唐木英明† (東京大学名誉教授・日本学術会議会員) 要 約 1986年,英国において牛海綿状脳症(BSE)が発見され,1996年に英国政府は,BSEが人間に感染して,新変異型クロイツェルフェルトヤコブ病(新型ヤコブ病)を引き起こした可能性を認めた.牛から牛への感染を防ぐための肉骨粉禁止と,牛から人への感染を防ぐための危険部位の食用禁止という2つの対策が適切であったために,BSEも新型ヤコブ病もその数を減らしたが,感染から発病までの間に長い潜伏期があるので,対策の効果が現れるのに時間を要した.その間のリスクコミュニケーションの失敗から,英国民の政府に対する信頼は低下した.政府は「安心対策」として,30カ月齢以上の牛をすべて殺処分にする「30カ月令」を実施し,多額の税金を投入した.日本でも2001年にBSEが発見され,不適切なリスクコミュニケーションのために,不安が広まった.日本政府は,肉骨粉の禁止と危険部位の除去に加えて,「安心対策」として食用牛の全頭検査を開始した.検査では弱齢牛のBSEを発見できないので,陰性になった牛の中にBSEがいる可能性が高いのだが,国民の間には「すべての牛を検査して,政府が安全を保証しているのだから,BSEに感染した牛を食べることはない」という誤解,いわゆる「全頭検査神話」を生み出すことになった. |
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1 英国のBSE 1986年に発見された一頭の変死牛から英国のBSE問題が始まった.BSEは短時間で英国全土に広がり,1992年と93年には年間3万頭以上の牛がBSEで死亡し,畜産業は大打撃を受けた.当時,政府は,BSEは牛の病気であり,人には感染しないと説明していた[1]. BSEの病原体と考えられるプリオンは,その99%以上が感染牛の脳,脊髄,背根神経節,小腸下部などの危険部位と呼ばれる組織に蓄積する.BSEの感染は,病牛の危険部位が混入した肉骨粉を牛に食べさせたためであった.英国政府は1988年に肉骨紛を牛などの反芻動物に与えることを禁止し,危険部位は食肉処理施設において分別し,焼却した. しかし,長い潜伏期があるために,肉骨粉を禁止してから,その効果が現れてBSEの数が減少するまでに,5年もかかった.牛は生後1年までにプリオンで汚染した肉骨粉を食べて,BSEに感染すると考えられている.子牛が食べたプリオンは,小腸下部から体内に侵入し,末梢神経とせき髄を通って脳に達する.最初は微量であっても,脳の中で時間をかけてゆっくり増殖してゆく.すると脳神経が次第に破壊され,最後に発病して歩行困難などの症状が見られるようになり,牛は死亡する.英国の1997年までの統計[2]では,24カ月齢以下の発症例は0.006%以下(約177,500頭中10頭),30カ月齢以下では0.05%(同81頭)で,最も若い発症は20カ月齢が1頭,感染から症状が出るまでは平均約60カ月(5年)であった.要するに,30カ月以下の弱齢牛でBSEが発見できる可能性はほとんどない(0.05%)(表1). 肉骨粉を禁止したにもかかわらず,その後BSEが増え続け,政府の対策の有効性が疑問視され,疑いと非難が浴びせられた.しかし,5年後にはBSEが減少に転じ,2005年には226頭,2006年には86頭まで減少し,肉骨粉の禁止がBSEの有効な対策であることが示された(図1).
食肉処理施設で牛1頭を処理すると,脳,脊髄,骨など数十キログラムの廃棄物が出る.これを加熱,乾燥して粉末状にしたのが肉骨粉で,家畜の餌や肥料の原料として利用価値がある.廃棄物を単に焼却することは環境対策上大きな問題であり,肉骨粉はリサイクルの思想に立った解決策だったのだ. BSEは牛には感染するが,いわゆる「種の壁」があるために,牛以外の種に感染する可能性はきわめて低い.したがって,例えプリオンで汚染された肉骨粉であっても,豚や鶏に食べさせることにはほとんど問題がなかった.間違いは,肉骨粉を牛に与えたことであった.乳牛には多量の蛋白源を与えないと乳量が低下する.仔牛は人工乳で飼育するが,これにも蛋白源が必要である.そこで肉骨粉が利用されたのだが,これが英国でのBSEの蔓延を引き起こし,さらに,BSEを世界に拡大することになった. |