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ゲノムサイエンスとともに歩む小動物臨床獣医学
新田由美子†(鈴峯女子短期大学助教授・広島県獣医師会会員) 犬の血統を維持する目的は,容姿と性格とが良い純血種を希求することに他ならない.その際,容姿の悩みのタネが尾と耳である.なぜ,断尾や切耳という身体を傷つける行為をしてまで容姿の美しさを追及しなければならないのだろうか.短尾や短耳介の犬を育種すれば良いではないか.多少なりとも遺伝学を学んだ獣医師なら,早晩思いつく解決方法であろうが,言うは易く行うは難し,というのが現実であった. このことを理解するためには,犬の育種の歴史を把握しておく方がよい.20世紀中期は犬の育種にとって最良の時期であった.すなわち,欧米諸国のケンネルクラブにおいては,正式に登録されている純血統種と雑種とを交配させ新種を育種することが最も盛んな時期であった.交配により望みの特徴を新種に固定して行く方法が主流の時代であった.ところが,多大なる費用と時間がかかることがその衰退をもたらし,今日ではもはや雑種交配の手法は用いられなくなってしまった.加えて20世紀後半には,興味本位の種間交雑が倫理面から否定される社会環境となり,ケンネルクラブは純血育種のみを許可し,種間交雑を異端とするコンセンサスができた. 21世紀になって,人ゲノムや犬ゲノムの解読終了に言及するまでもなく,遺伝子機能解析が勢力的に行われる時代となった.この時代を予見して20世紀末に,(1)『ある犬種から別の犬種へ,1個の優性遺伝子を導入することは,さして難しくはないであろう.』(2)『あるブリーダーから別のブリーダーへ,一つの優性表現型を拡散することにかかる時間を評価することは,意味がある.』(3)『導入しようとする優性遺伝子のゲノムの表現型を解析することは,英米両国が推進する犬ゲノムマッピング計画に貢献するであろう.』と考え実行した遺伝学者がある.本論では,その人:Bruce Cattanach(英国)を紹介する.そこには,ゲノムサイエンスとともに歩む,21世紀における臨床獣医師の発展の可能性が,あるように思えるからである. Bruce Cattanachは,遺伝的に短尾のボクサーを育種することに成功した.3世代を経て新系統を樹立したが,その間の苦労は「遺伝学は楽しい(http://www.steynmere. com/GENETICS.html#articles)」に詳しい.彼はさらにゲノミクス手法を駆使して,短尾の表現型を支配する遺伝子の変異も突きとめた.T-box遺伝子(転写因子)で,染色体1q23に位置し,DNA結合ドメインのミスセンス変異を持つとハプロインサフィシエンシーにより短尾の表現型を発現する(Mammal. Genome, 2001 Mar; 12 (3) : 212-8),というものであった.この論文では,T-box遺伝子について,家系解析,染色体検査(FISH法),ゲノムシークエンスを行い,20犬種,28ブリーダーコロニーについてSNPsを検索するとともに,T-box遺伝子がコードするアミノ酸配列を,人,マウス,その他の動物種について比較している.まさに,犬ゲノムマッピングへ先駆的貢献をした.もはや必ずしもボクサーの断尾を行う必要はなくなった. Bruce Cattanachは,ダルメシアンの黒斑に関して臨床獣医師が抱える「ジレンマ」を,動物に苦痛を与えない方法すなわち遺伝学的回避手法について総説しているので紹介する.なお,この総説の日本語訳に際しては,「既に犬ゲノムの一次構造も明らかになり,総説内容は古くなった.」との言葉とともに本人の了承を得たので付記する. |
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- - - - ダルメシアンのジレンマ ―白色毛と聾との関係― Bruce M Cattanach,英国小動物臨床雑誌J. Small Anim. Pract. 40, 193-200, 1999,訳・編集:新田由美子 |
ダルメシアン(Dalmatian)は黒斑があるにもかかわらず基本的には白毛種に属し,繁殖面では聾の危険度が高い(表1). 白色毛に聾が多いことは古くから知られてきたことであるが,臨床獣医師らは聾の遺伝様式に悩まされてきた.雌雄とも正常聴力の親から聾の仔犬が生まれ,またその逆もある.原因遺伝子が,劣性か優性か,多因子性か,性染色体性か,が問題にされてきた(Greibrokk 1994, Anderson et al., 1968).このように複雑な要因に起因する聾も,繁殖学的研究により,発生頻度を減少させる成果が上がっている.すなわち,BAER(brain stem auditory-evoked response)テストで正常犬と片側性聾犬とを診断し,片側性聾犬を繁殖用に用いない方法で,聾犬発生頻度を下げることができる.驚くなかれDalmatianの聾の原因遺伝子は,人の遺伝病解析から特定された聾遺伝子群ではなく,身体各所における色素沈着に関与する遺伝子群なのである.となると,メラニン合成系に関与する遺伝子診断キットの開発は,Dalmatianの聾克服に貢献するであろう.それでもDalmatianブリーダーは,『聴力を優先すれば毛色に,毛色を優先すれば聴力に問題が生じる(Famulaら1996, Woodら1996)』というジレンマは続くこととなるだろう.色素斑が多すぎないところがDalmatioanの美しさなので,色素斑を増やさず聾をなくしたい.内耳にだけ色素細胞を増やすか,直接的に内耳血管条に色素細胞をリクルートする方法であろうが,まだ誰も成功していない. |
1 白色毛の基礎 犬の白色毛は2通りの経路で生じる.一方は色素細胞により産生される色素の希釈であり,off-white色となる.例えば,west highland white terrierである.他方は色素細胞消失による白色毛であり,しばしば目のまわり,耳のまわりに黒斑が現れることが特徴である. 犬の白色毛には少なくとも2つの遺伝子が関与する.第一は優性merle(M)遺伝子で,Collie,Cardigasn Corgi,Harlequin Great Daneらの毛色は,ヘテロ接合の表現型である.ホモ接合型の場合,毛色は真っ白,盲目,聾,である. 第二は劣性(s)遺伝子で,Dalmatian,English Setter,White Bull Terrier,White Boxerなどの白色は,この遺伝子のホモ接合の表現型である. s遺伝子には幾つもの亜型があり,それぞれに特徴的な毛色を示す.(1)S優性亜型は,黒色毛に一部白斑を示す.四肢先端,胸部,腹部にみられる白斑である.近親交配の結果みられるIrish Setterの胸部,腹部白斑である.(2)si劣性アリルは,頸部の色素細胞コロニー形成開始部位に色素細胞の定着が起こらず,他のコロニー形成開始部位への移住も不良である.Irish spottingともよばれ,白色領域が,顔面,頸,四肢先端部,胸部,腹部にわたる.Boston Terrierがそれである.(3)sp劣性アリルは,駁毛で白色領域がさらに広い.Pointer,Coker Spanielがそれである.(4)sw劣性アリルは,コロニー形成開始部位に限局して有色素斑が認められる.目輪,耳.色素細胞移動の「紋」が認められる.白色毛に有色斑点の表現型で,Dalmatianらに見られる(表1).この白色毛と有色斑点との相関関係に,聾を見分ける鍵がある. 色素細胞は胎仔期の神経管に発生し,頭部と背線部の特異的部位に左右対称性に移動し,コロニーを作る.頭部には3対のコロニーがあり,目,耳,後頭部である(King Charles SpanielのBlenheim斑).体幹には,最小6対のコロニーがある.各部位には少数の色素細胞が移住し(Lyon 1970によると3個以下),クローン増殖して斑を拡大し,隣接斑と融合しつつ背側から正中へ移動し,腹側正中線で左右が融合する.その後,四肢先端へ向かって移動し,つま先までたどりつく.遠位端である顎,胸,腹,四肢先端部は,白色斑として残存しやすいが,移動の途中停止が白斑形成の最も一般的メカニズムである. 犬では,生後すぐから色素細胞移動が始まり,生後2,3日から数週間のうちに目的地へ到着・増殖して斑を拡大する.この色素細胞移動は,各犬種に特徴的なパターンをもたらす.Dalmatianでは,家系特異的な斑パターンを修飾する因子としてticking因子(T)が予想されているが,この因子をコードする遺伝子の解明は進んでいない. 左右対称性についても述べておこう.目や耳の黒色化が片側性の場合がある.白色毛の犬の場合,一側または両側性に青目が起こることを経験する.これは,虹彩における色素沈着消失がもたらす表現型で,色素細胞の分布異常を原因とする.同様に,内耳における色素細胞の増殖が聴覚機能発現に必須の条件なのである. |
2 聾 の 基 礎 犬の聾に関与する遺伝子はいくつか報告されており(Stain 1996,2004),どの場合にも内耳に異常がある.内耳では,その発生と機能において色素細胞の存在が必須である.色素細胞は通常血管条に存在する.血管条に色素細胞を欠くと血管条変性が起こり,内耳の血液供給に支障をきたし,内耳の構造が破壊され聴細胞を障害する. 聾―白色毛―青目には相関関係がある.表皮色素細胞数が少なければ少ないほど毛色は白色に近づく.同様に,片側,両側の網膜・虹彩色素細胞が欠乏すれば青目の表現型となり,内耳色素細胞が血管条から消失すれば片側,両側聾となる. 白色毛犬で聾を伴った青目の報告は早い(Hayes 1981).両眼青目のダルメシアンが片側性または両側性の聾に罹患する危険度は,両眼茶目の2〜3倍であり,単眼青目の場合も両眼茶目の場合の2〜3倍である. Dalmatianでは,色素が多い個体ほど聾は少ない(Strain 1992, Holliday 1992, Greibrock 1994, Famula 1996, Strain and Tedford 1996).色素斑を持つ個体の両側性聾(2%)は色素斑無しの個体のそれ(8.4%)より頻度が低く,色素斑を持つ個体の片側性聾(8.5%)は色素斑無しの個体のそれ(23.5%)より頻度が低い.BAERテストで両耳正常である親から生まれた子犬は聾頻度が低い(Strain and Tedford, 1996).このように,Dalmatianの聾の表現型は単純で,中耳への色素細胞の移住,すなわちs遺伝子型により制御されている. |
参 考 文 献 | ||||||||||||||||||||||
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† 連絡責任者: | 新田由美子(鈴峯女子短期大学食物栄養学科) 〒733-8623 広島市西区井口4-6-18 TEL 082-278-1103 FAX 082-277-0301 E-mail : yumiko-n@df7.so-net.ne.jp |