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論 説

産業動物診療獣医師に求められていること

中野 進(兵庫県農業共済組合連合会専務理事・兵庫県獣医師会会員)

先生写真1 は じ め に
 近年,健康な家畜,家禽から生産される安全な食品の安定的供給に対する消費者ニーズが高まっている.こうした状況のもと生産性の向上及び効率化を図ってきた日本の畜産は,一つの転換期を迎えようとしている.
 一方,診療獣医師は「食の安全・安心」を確保するため,生産者と消費者両方の視点を持った対応が強く求められている.また畜産農家からは,個体診療のほか,体系的に整理された獣医療に基づく群管理による生産性の向上と,収益性の確保を目指す「生産獣医療」の提供が広く望まれている.
 加えて,動物福祉の観点から家畜に快適さを提供する環境の整備により,健康を維持し生産性の向上をもたらす「カウ・コンフォート(乳牛の快適性)」への関心が高まっている.
 家畜の生産現場及びその生産物に対する消費者の信頼を得るとともに,畜産農家のニーズに応え,安定した畜産経営にいかに貢献するかが,産業動物診療獣医師に求められている.

2 診療獣医師における活動の原点
 第一線診療現場における活動の原点は,家畜の個体診療にある.診療獣医師に求められているのは,同一水準の診療技術の提供と緊急診療体制の整備である.日常の診療活動を通じ,畜産農家との人間関係を構築するとともに,個体診療による牛群の情報収集と畜産農家の経営理念及び目標の掌握に努めることが「生産獣医療」に取り組む第一歩と考える.
 また新たな脅威であり,大きく社会問題化するであろう新興・再興感染症への初期防疫活動には,個体診療を基礎とした「問診」に始まり,「五感」による診断に加え科学的な考察による類症鑑別技術の向上がより重要となる.さらに家畜保健衛生所等畜産関係機関と連携した確定診断技術の確保により,感染の拡大を防ぎ被害を最小限に留めることが求められている.
 食品を提供する産業動物への医療では,食の安全・安心への意識の高まりの中で,ポジティブリスト制度の導入もあり,動物用医薬品使用への関心が高まっている.
 診療行為に際しては,食品中の薬物残留に細心の注意を払い,食品として供せない期間等の説明責任を果たすことは当然のこととして,薬剤耐性菌の出現にも最大限の留意が必要である.家畜・家禽への抗菌剤使用が耐性菌の出現に大きく関与しているとの問題提起もあり,薬剤耐性菌による院内感染の原因として,家畜・家禽の耐性菌が一部関与しているとの疑いも持たれている.
 感染症に対する抗菌剤の選択は,主に感染臓器と原因微生物の薬剤感受性を中心に考えられてきた.さらに近年では血液中や組織中の薬物及びその代謝物の濃度の経時的な動態を知る「薬物動態」と,薬物用量や濃度と臨床効果との関連を知る「薬力学」を基準とした抗菌剤の投与法,投与量が考えられるようになった.
 抗菌剤の使用に際しては,慎重使用を心掛けると共に,新薬の開発が多く望めない状況もあって,手持ちの薬剤を有効に活用し,持続的かつ最大の効果を得る「感染症への治療指針」をより一層確立する必要がある.

3 生産獣医療への取組みの現状と課題
 家畜の多頭化の進展に伴い,個々の家畜のみならず家畜群全体の栄養管理・健康管理により,生産性とともに収益性をも追求する「生産獣医療」への取り組みが,生産農家から強く求められている.
 わが国では,家禽を除く家畜の多くは「家畜共済制度」に加入し,診療獣医師による診療行為は,原則として保険給付される仕組みとなっている.
 家畜共済加入者は,診療行為以外の生産獣医療等の提供に対しても,共済制度の中で給付されるものとの認識もあり,相応の対価を求めにくい状況にある.
 また畜産農家の経営理念及び生産目標は多種多様で,生産獣医療を行う側との認識の相違により,必ずしも期待した成果が得られないことが,生産獣医療の普及拡大を阻む要因の一つとなっている.
 持続可能な生産獣医療の取組みを実現し,一定の成果を挙げるには,畜産農家自らが問題意識と改善する姿勢を強く有しているかが最も重要なことである.
 畜産農家自らが求める生産獣医療の提供に対しては,相応の受益者負担が伴うとの意識改革に努めるとともに,各牛群の個体情報データベースをはじめとした「生産獣医療システム」の一層の構築を図り,異なる経営理念への情報の蓄積と提供により,この取組みが普及・定着するよう絶えまない研鑽が必要である.

4 健康な家畜から生産される畜産物の提供
 家畜の生産現場は,現在の社会構造等の影響を受け,経済性と効率性を追求するため,家畜に充分配慮したとはいえない環境の中で,多くの畜産経営が行われてきた.
 現在,いわゆる動物愛護の立場から,家畜の福祉が保障され健康を維持し,安全な食品を継続して生産できる環境の整備が望まれている.具体的には,快適な環境への評価は酪農産業において,ストール内で横臥している牛の状態の観察,横臥している牛の頭数及び時間の測定,また蹄疾患の発生状況等により行われている.
 牛舎構造をはじめとした家畜の環境は,生産性及び健康に重大な影響をもたらし,必然的に収益性の向上に繋がることとなるが,環境整備を図る上で全ての要件を整えることは,必ずしも可能でなく,さまざまな制約の中で最大の効果を得る創意工夫が求められている.
 国際的には,家畜福祉の定義として5つの基本原則が提唱されている(FAWC in UK,1993).[1]空腹と喉の渇きからの開放,[2]不快からの解放,[3]苦痛・損傷,病気からの解放,[4]正常な行動を表現する自由,[5]恐怖と苦悩からの解放.
 また動物愛護に関心を持つ個人・団体からも,劣悪な環境を初めとした家畜の不当な取り扱い,時には家畜への診療行為に対して批判的な評価を受けることが想定され,このことへの対応と説明責任についても留意する必要がある.
 今後一層,「カウ・コンフォート」を中心とした家畜の福祉に配慮し,家畜の健康を保ち,安全で良質な畜産物の生産性向上と収益性の追及が,生産者,消費者双方から求められるであろう.

5 お わ り に
 自然環境の破壊,国際化の進展等に伴い,従前ならば特定地域の風土病で終わったかも知れない感染症が,瞬く間に国境を超えて拡大する時代を迎えている.また病原性を強めた再興感染症への対応も大きな課題となっている.このような中にあって,産業動物診療獣医師が行う第一線診療現場における「初期防疫活動」は大きな社会的役割を担っている.
 また「食の安全・安心」に対する社会的関心の高まりの中で,家畜の健康と生産物の安全性を確保し,消費者に安全な食品を提供することが社会的責務となっている.
 加えて,獣医学のみならず幅広い知識・活動による「生産獣医療」への取り組みが,広く畜産農家及び消費者からも求められている.
 これら社会的役割の重要性が増す中,産業動物診療獣医師の社会的地位が一層高められ,魅力ある職種として広く認識されることも重要な課題である.
参 考 資 料
[1] 読売新聞:家畜への薬乱用,2003.11.28
[2] 藤田紘一郎:抗菌剤の乱用への警鐘 文藝春秋,2003.1
[3] 朝野和典:感染症診療 内科,Vol. 96,No. 5,2005
[4] Howard L. Whitmore:アメリカにおけるプロダクションメディスン最新情報,1997.2
[5] John Brouillette etal:Cow comfort and the effects on productivity and profitability,2005.8



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