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ネパールの犬たちと狂犬病予防集合注射
五十嵐浩子†(水海道アニマルクリニック院長・茨城県獣医師会会員) 「“ネパールに狂犬病ワクチンを送る会”というボランティア団体のツアーにご一緒しませんか?」と誘っていただく機会があり,2003年にネパールを初めて訪れた.(政治的には不安定な時期にあり,2005年には事実上の戒厳令がしかれ,その後,ネパールは絶対君主制から象徴王国制に移行している).未だネパールの内政は複雑でも犬も人も素朴で素敵だったこと.知っていただく機会を得られた事を嬉しく思う. ネパールの人口は約2,700万人.狂犬病感染により,年間150〜200人が亡くなってる.日本の人口は約1億2,700万人,ネパールより1億人多いのだが,狂犬病感染者・死亡者は2人である(2006年8月にフィリピンで犬に咬まれた男性が帰国後発症して11月に死亡した.38年ぶり). ネパールの犬は,多くが放し飼いされており,個人が所有する個体と,地域住民が共同で世話をする個体と,野良犬とが静かに共存している. カトマンズ(首都:人口55万人)のような都市部では,人と犬と猫の密度が高いため,都市型狂犬病の感染の機会が少なくない.この感染症の撲滅方法は,予防接種と野良犬数のコントロール意外にはない.しかし,ネパールではワクチンの製造を行っておらず,ワクチンを輸入する資金もないのが実情である. 今回の狂犬病集合予防注射に使用されたワクチンは,メリアル社からの寄付であった. まず日本で,自身が狂犬病のワクチンを接種してから,3月上旬,日本を発った.メンバーは獣医師4名,通訳2名,作家2名,写真家1名,愛犬家1名の計10名. 上海を経由して,約9時間の空の旅の後,首都カトマンズへ到着. 日本(茨城)は7℃であったが,そこは22℃.標高8000mを超えるヒマラヤ山を北に抱える国なのに,首都の経度は沖縄本島とほぼ同じ.多くの人々が暮らす地域は,亜熱帯及び熱帯なので,想像とは随分異なり,3月のネパールは5月の日本のように快適な陽気であった. ネパールのNGO“全国人獣共通感染症及び食品衛生リサーチセンター”を設立・運営しているDr. ジョシとセンターのスタッフ達に同行して,翌日から,集合注射に出かけた. 集合注射の会場は,公民館の前の広場や役場の支所のような,公共施設の中庭.日本と似たような場所が選ばれている. イラストがふんだんに描かれたカラフルなチラシを見れば,狂犬病予防について,ワクチンがいかに必要な処置であるかがわかりやすく説明されており,無料でワクチン接種を受けられることを知らせる広報活動が事前に地域の人たちに向けてなされていた.会場には目を引く大きな横断幕が張られて,参加者を増やすための努力を感じた.前回は2001年11月に行われ,今回は第2回目の予防注射接種事業だったそうである. 私自身,狂犬病ワクチンを受けて来たので,「万が一咬まれることがあっても大丈夫」と思いつつ,「自分が咬まれるのは困るし,飼い主が咬まれるのも本当に困る」と複雑な気持ちでワクチン接種が始った. 飼い主の腋や胸に抱かれる犬だけでなく,普通の紐で首を縛ってつれてこられる犬もたくさんいる.皆静かに,飼い主に寄り添ってワクチンの順番を待っている.他の犬に近づくことや注射されることを嫌がる犬がいない.どの犬も,緊張する風でもなく,飼い主に保定されたまま注射を打たれている.犬と人間の信頼関係が,自然に伝わってくるようであった.日本で経験する集合注射会場の犬たちと,ここに集まる犬たちは,本当に同じ種類の生物なのだろうかと,ボランティアに何度も参加しているI先生に,その驚きを伝えたところ,「初めてこの光景をご覧になった先生方は,皆さんそうおっしゃいます」と笑って答えて下さった. 犬だけではなく,会場には猫もハムスターもラットも猿も来ていた. 猫までもがおおむね静かで,されるがままに注射を打たれている.ただふんわり抱っこされて連れられて,困った顔をしているだけで,たくさんの犬に混じって順番を待ち,飼い主を引っかいたり逃げたりすることはない. 犬も猫を脅かすことはない.彼らは飼い主を見つめ,他の犬たち,猫,我々スタッフのやっていることをただ静かに見ているだけだ. 争いを好まない穏やかな性格の遺伝子を,会場に来た動物達は皆持っているのかもしれない. 市街地で自由に行動している犬達のたたずまいも不思議な落ち着きを感じた. 彼らはただそこにいて,風景の一部のように静かである.多くの人たちが行き交う観光地にも商店街にも,自由に散歩する犬たちがいる.人も犬もおたがいに干渉せず,無関心.道端で眠っている犬を見ていると,「人から意地悪をされたことがないからこそ,ここまで無防備に横たわれるのだなあ.」と思われた. 夜間や発情期には,野良犬の群れがギャング化することもあると聞かされた. 狂犬病のある国だから現実は厳しく,私が見たのは,この国の犬達のほんの一部,一面に過ぎないのだと分かっている.ただ,狂犬病さえなかったら,ネパールの犬達は,落ちついた幸せな暮らしぶりのように見えた. 犬と人間の関係が成熟していて豊かな場所は,“アジアの後進国ではなく,経済的にも豊かな先進国欧米”というような想像をしていた私であったが,ネパールで出会った,日本と比較すれば貧しい食餌を与えられ,病気になっても,十分とはいえない手当てを受けているだけの犬達(猫達も)が,ゆったりと暮らし,飼い主を含む人間全般に対し,躾を受けたわけでもないのに,全幅の信頼をよせて従順でいるのを見るうちに,日本の犬たちとの違いを考えてみた. 日本では,人が皆忙しすぎて,犬がゆっくり,飼い主との信頼関係を築いていく時間を持つことが難しく,早くお利口な犬になってほしいと急ぐあまりに,犬の方にはストレスが溜っているのかもしれない.日本では,犬は子犬の頃こそ大事にされても,飼い主次第で,共に過ごす時間を割いてもらいにくく,長時間鎖につながれたまま,散歩を楽しみに待っている.やっと遊びに行ける時になると,はしゃぎすぎて,行儀が悪くなったり,自分の我儘を通そうと乱暴になるのかもしれない.楽しんでいる時にやんちゃぶりを叱られたりして,ストレスを貯めているかもしれない.若くて元気なうちは,家人の留守中,繋がれて留守番している犬は,きっと退屈をもてあましているはずである.犬だってエネルギーを発散し終えてはじめて,人との関わり方を考える余裕が生まれようというものである.ネパールの犬たちは,ゆっくりした時間の流れの中で,自然にエネルギーを発散していて,ストレスを感じることも少ないように見受けられた. 日本とネパールと,どちらの国に暮らす犬が幸せかと考える時,少し微妙な気持ちになる.ネパールは経済的には貧しく,政治的にも不安定な国であるが,旅をする人や犬の立場からだと,快適な速度で時間が流れる,精神的には非常に贅沢な国だったからだ. 日本が狂犬病の撲滅に成功した国でいられるのは,賢明な先人達のおかげであり,地理的にも経済的にもそれが可能だったからである.狂犬病は今でも致死率の高い人と動物の共通伝染症であり,犬にも,犬から人へも感染が起きないよう啓蒙活動に努めることは,われわれ獣医師の大切な仕事の一つであると認識を新たにした. ネパールへ向けて出発した時,経由地中国では,SARS(重症急性呼吸器症候群)が問題になっていた.私の暮らす常総市水海道に,トリインフルエンザの発生があったのは,2004年4月だった.人と動物の共通感染症は,人間(飼育者)の正確な知識と,病気の侵入を食い止めるための,日々の努力が一番のワクチンだと思う. 最後にネパールで感じたカルチャーショックを3つご紹介する. その《1》 集合注射会場には,動物だけでなく,人もたくさん集まる.(図1参照) 犬を連れていない人達,ただ見物しているだけの成人男性と子ども達が犬の数より多い.仕事に行ってない人達,学校に行ってない子ども達が,予防注射光景の見物を楽しんでいる.今の日本で,平日の昼間に,犬を連れてこないでただ見物だけしているだけの人がいるだろうか……? 成人男性なら,最寄りの小学校の保護者から不審者として通報されるかもしれないし,15歳以下の子供達なら,不登校児とみなされる危険もある. その《2》 成人女性は家事労働に従事する. カースト制度が実際の生活に根ざしているネパールでは,高いカーストの者が,経済的に豊かだとしても,家事一切は,原則同じカーストの者が行う.普通,それらは,嫁の仕事とされている. メイドがいても,家族の食事の用意だけは嫁がする.低いカーストの人が用意した物を,高いカーストの人が口に入れることはない. よって,外食の習慣は,結婚前の新しい考え方の若い人たちに,わずかにあるだけらしい.若い夫婦が優雅に外でディナーを楽しんだ夜は,家では両親がお腹を空かせて待っているので,嫁は帰宅後調理しなければならない.(適当にあるもので留守番の家族が食事を済ませることもないし,他の家族が料理することもない.食事は同じカースト出身の嫁が作るという習慣があるだけなのだ.) 成人で結婚していない女性は少ない.家の外で働く女性も少ない. 既婚女性で家族を置いて外国へ出て来た,我々女性陣は珍しい生き物だったらしい.女性獣医師も初めて見た!とのことだった. その《3》 本当にいる.捨て牛と生き神様とストリートチルドレン.(図2参照) ヒンズー教では牛は神聖な動物とされていて道端に誰のものでもない牛がいる.と聞いたことがあったが,世界遺産の一つ,パタンの町・ダルバール広場で本物の誰のものでもない牛を見る機会があった.飼料は近所の人が適当に与えるものでしのいでいるとのことであった.激しい下痢をしていたのだが,観光中の身では何もできない.“お腹が治りますように.”とヒンズーのたくさんの神々にお祈りを捧げてきた.われわれ観光客の後を,時折ストリートチルドレンがついてきた.両親のいない子どもたちである.小さいのに心細いだろうなと,切なくなる.厳しい境遇の子達だが,この子達にも信仰の厚いネパールの人たちは,食べ物を分け与えるのだそうである.人にも犬にも牛にも食べ物を分け与える優しい心.信仰はたがいを支えあうように働いているようであった.ダルバール広場には生き神様の住んでいるクマリの館があり,お布施をすると,お顔を拝見できる.家柄正しい幼女の中から選ばれた少女が女神クマリとして崇拝されているそうである.かわいい人であった.
飽きることのなかった美味しいカレー三昧の日々.世界遺産・パシュパティナートで見学した火葬と,遺灰を川に流す様子.セスナで片道30分,亜熱帯のカトマンズーから雪をかぶったエベレストを見に行く遊覧飛行の素晴らしさ.楽隊を先頭に,練り歩く結婚式の行列.私たちをご自宅へ招いてくれた通訳,柴田スレスさんご家族の暖かいもてなし.上流家庭のお宅訪問.Dr.ジョシのお宅で開催されたお別れパーティー.休憩時に出されるミルクティーの美味しさ.かなり乱暴な交通事情とモラル.ネパールの複雑な内政状況.驚いたことはまだ沢山あった. 機会があればまた是非訪れたい国ネパール. 現在,政情不安のせいで,この事業は一時中断されているが,もし,興味をお持ちの先生がいらしたら,「ネパールへ狂犬病ワクチンを送る会」のホームページ(http://www5a.biglobe.ne.jp/~nepal-am/)をご覧いただいて,協力・寄付をいただけると幸いです. |
† 連絡責任者: | 五十嵐浩子(水海道アニマルクリニック) 〒303-0031 常総市水海道山田町1265 TEL 0297-23-2235 FAX 0297-22-2012 E-mail : marugo@mb.infoweb.ne.jp |